狗邪韓国

狗邪韓国


倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國。(帯方)郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里

狗邪韓国は、現在の大韓民国金海市を中心として広がっていた国でした。この地方は、別名を伽耶と呼ばれ、「狗邪」の文字も伽耶を聞き取り充てた文字であると思われます。
狗邪韓国の遺跡からの出土品は、日本でも見られるものが非常に多く出土しております。銅剣、銅矛、銅戈等の青銅器をはじめ、日本と同様に中国鏡や、勾玉も数多く出土しています。天皇家に代々伝わるとされる八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)に代表される日本固有の文化と思われていた霊力のある勾玉文化を持ちいたシャーマニズムも、朝鮮半島からもたらされた文化なのかもしれません。
青銅器の中には、巴形銅器も含まれていました。しかしながら、日本で出土する巴形銅器とは少し異なり、手のひらぐらいのある大きさを持ったものです。狗邪韓国では、兵士の楯に付けられていたと考えられていますが、日本のものは、そのまま武器として用いられたものだと思われます。
狗邪韓国と、日本の古代の国々との大きな違いは、鉄製品と馬の存在にあります。魏志倭人伝では、日本には馬がいないと書かれていましたが、この国では、馬を戦闘用の大切な動物として扱っていました。人間だけでなく、馬にも鉄製の鎧兜をつけさせて戦ったようです。出土品の中には、馬の兜のみでなく、全身を覆った鎧も出土しています。この馬を使った武力が狗邪韓国を小国ながらも延命させることになりました。狗邪韓国(韓国では、金官伽耶と呼ばれています)が滅ぶのは、532年のことです。新羅に滅ぼされた時、狗邪韓国の人々は日本に渡ってきました。壱岐や、北九州にその痕跡の多くを残しています。
狗邪韓国は、倭の国々に文化を輸出する窓口としてその役割を担っていました。日本に青銅器や鉄器が伝わったのはほぼ同じ頃になります。日本では、もたらされたこれらの品を、再度溶かして、新たなものとして作り替えていました。弥生時代、海峡を渡って来た彼らの足跡は、支石墓や甕棺の形で北九州をはじめとして、非常に多く遺跡として残されています。

狗邪韓国ミニ映画館