伊都国

伊都国



東南へ陸行五百里にして、伊都國に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。
女王國より以北には、特に
一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の如きあり。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國に詣り、および郡が倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。

他国と最も異なる点は、伊都国には代々王がいると記載されていることです。また、官や副官の役職名も他の国とは大きく異なり、この地が倭の都であったことがよくわかります。
それ故に、ここには、「一大率」と呼ばれる役所が置かれていました。倭から魏の都もしくは、帯方郡に出向くには必ずここに伝え通過することが必要でしたし、魏の都や帯方郡からの通知はこの一大率に届けられ検証されました。ほとんどの学者が一大率を邪馬台国が設置したとして考えていますが、当時の東アジアのパワーバランスの中で倭の位置づけは、あくまで帯方郡の管轄下にある一地方であったのですから、一大率などという適切な漢字が充てられる役所を邪馬台国が作ったとは考えられません。歴史探求社は、これは公孫氏が設置した出先機関であると考えています。そうであるとしか考えられませんし、そうであることで全てに辻褄があうのです。
伊都国は現在の糸島市の三雲井原遺跡にあったと考えられます。この周辺では、おおくの支石墓が発見されており、朝鮮半島からの渡来人が古くから吸い付いた場所でした。また、魏志倭人伝に遡ること100年程度の王の墓が、三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡(いわらやりみぞ)から発見されました。この王は、西暦107年に倭王として朝貢を行った帥升の墓ではないかと考えます。このことも倭の中心が、この伊都国にあったことを裏付けます。
原田大六氏が発掘した、平原遺跡も、この三雲井原のすぐ近くにあります。太陽信仰の跡が見つかり、三種の神器である勾玉、銅剣、銅鏡が埋められていた墓は、天照大神や卑弥呼の影を見ることができます。対馬からもたらされた太陽信仰は、この地で形作られ、もっと太陽に近い土地、邪馬台国へと持ち込まれたものだと思われます。


伊都国ミニ写真館
三雲井原遺跡と平原遺跡の出土品