対馬国

対馬国


始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。その大官を卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。土地は険しく深林多く、道路はきんろくのこみちの如し。千余戸有り。良田無く、海物を食いて自活し、船に乗りて南北に市てきす。

対馬は、朝鮮半島と日本列島を結ぶ要の場所にある島です。朝鮮半島から約50kmの距離の持つ意味は非常に大きく、時速2ノット(約3.7km)で漕いだとして一日で進める限界距離に近い場所です。このことから、多くの人々が朝鮮半島から渡って来るとともに、次の宿港地である壱岐へと渡っていきました。
対馬はその厳しい自然環境の地形から、平野に乏しく稲作には非常に不向きな土地となりました。このことが幸いし、朝鮮半島から渡って来た人々は、皆平地を求めて、壱岐へそして北九州へと渡っていきました。
この地に住む人々が生きながらえてゆく方法は、交易しかありませんでした。このために、非常に発達したのが航海術でした。この航海術を使い、中世になると倭冦と呼ばれる海賊として朝鮮半島や壱岐、北九州を襲いましたが魏志倭人伝の時代では、海の民として非常に重視されました。
この海の民は、海神を祀り、そしてその海神への祈りは、太陽信仰へと変化していきました。稲作の民には雨が必要でしたが、彼らに必要だったのは強い太陽だけだったのです。
対馬地図
対馬の西側、上島と下島の間には浅茅湾(あそうわん)があります。この浅茅湾は、対馬の中心地として重視されるようになりました。倭冦が頻繁に行われた頃、朝鮮通信使は密命として倭冦の本拠地を突き止めることを命じられました。彼らが作った地図は対馬を驚くべき形に変えてしまいました。
対馬には今も太陽信仰である天童信仰が残ります。そして、浅茅湾の秘密の東の出口には、アマテルの信仰が始まったのです。アマテル信仰は、北九州にもたらされ、そして、卑弥呼とともに日本の信仰の中心へと発展していきました。この信仰の中から生まれた、自然を読む力、そしてシャーマニズムは、対馬を卜占の中心地としました。ここ対馬の出身者達による卜占の霊術は、卑弥呼や台与に受け継がれ、日本の神道へと発展していきます。今も残る、海神伝説。そして、豊玉姫のお話は、日本の神話として語り継がれました。日本の天照大神への信仰の源流は、この地、対馬にあったのです。



対馬国ミニ映画館
和多都美神社とアマテル神社