岩手の鬼



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皆さんは、岩手県がなぜ「岩手」というのかご存知でしょうか。
これは、盛岡の三ツ石神社にある岩に、羅刹(らせつ)という鬼がもうここには来ませんという約束のために岩に手形を残した
と伝わるお話が、岩手の名前の由来なのです。また、鬼が来ない方向という意味で、この地方は「不来方(こずかた)」と呼ばれるようになったのです。




日本の鬼

鬼という漢字は、もちろん中国で作られました。鬼の字の元は死者の魂に角を付け、私利私欲を加えた字です。非常に観念的な創作ですが、字の意味するところはよく伝わり、私達の考える鬼に近いものであるような気がします。
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古代中国では、世界は四角の大地であると考えられ、四隅には世界の果ての門があると考えられました。東北の方角にある門は、鬼や妖怪、死霊が出入りする場所として「鬼門」と呼ばれます。東北に鬼門があるのは、陰陽五行説によるのですが、生命は東からやってきて、死は北の方向にあるとされていたからです。これが、東北には鬼がいると思われるようになった原因でもあります。
ただ、鬼は人々の住む近くに入り込んでくるとも考えられていました。いつしか、怨念の塊が鬼として考えられるようになったためです。このため、この鬼が住みつかないように年の暮れには追儺の儀を行なって鬼を追い払い新たな年を向かえるようになりました。これが節分の鬼になったのです。

日本中に、多くの鬼の伝説がありますが、東北には本当に多くの鬼の伝説が残ります。また、地名や史跡に鬼の痕跡が多く残されているのも事実です。これはなぜなのでしょうか。
そこで、岩手に残る幾つかの鬼の伝説を紹介させていただきたいと思います。


大武丸(大嶽丸、高丸)

宮城県と岩手県の県境にある鳴子温泉は、別名「鬼首温泉」と呼ばれます。これは、大武丸という鬼を実際に退治し、この首を埋めた場所がこの鳴子温泉であったからです。退治したのは、坂上田村麻呂であると言われています。つまり、この大武丸とは、どうやら「蝦夷」の頭領の一人であったようです。この大武丸の胴体を埋めた場所が、「鬼死骸」と呼ばれる場所です。市町村合併が行われるまでは「鬼死骸村」として村名として残っていました。今は、一関市真柴の的場地区です。「鬼死骸」の地名は、あまりにも直接的で好印象がもたれません。このため、この地名は、どんどん消されてしまい、今や地域の表示からは無くなってしまいました。しかし、そこに住まない私が言うのもどうかと思いますが、これ程魅力的な地名と伝説は存在しません。是非とも、一関市の方々にはこの名称を残していただきたいと思います。
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その地区には、鬼石(写真上)が残り、坂上田村麻呂が作ったと言う伝承が残る鹿島神社(写真下)が残ります。
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人首丸

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一関市の外れにある達谷窟は、ここに悪路王と呼ばれた蝦夷の頭や、赤頭と呼ばれた頭が砦としていた場所であり、さらわれた姫の伝説なども残る悲しい場所です。ここも坂上田村麻呂が退治し、そこに毘沙門堂を作りました。毘沙門天は武力の神です。力で征圧した大和朝廷の歴史を残しています。この悪路王の子供だとも、大武丸の子供だとも言われているのが人首丸です。人首丸は、最後まで抵抗しましたが、奥州市江刺区の山中で退治されたと言われています。人首丸は、大和朝廷軍の倒した兵士の首を並べていたのかもしれません。
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この人首村は、今も米里人首町という名称で残ります。この人首町から10kmほど山の中に入った場所に人首丸の墓が残ります。蝦夷の人々にとっては、頭領ですから彼は英雄であったはずです。大和朝廷の力に屈することなく、地名も墓も残しているのです。
この奥州市に残るのが、胆沢城(いさわ)です。一時期はここが日本の最北端で、蝦夷との国境線になっていました。






武士へと転化していった鬼達

蝦夷の首領は「鬼」として語り伝えられているのです。やはり、稲作民から見ると、山で暮らす狩猟民は異人種であり、「鬼」に見えたようなのです。
討伐された蝦夷達は、朝廷の支配に属すようになります。朝廷は彼らを「俘囚(ふしゅう)」と呼び、強制的に各地に移住させました。同化させてしまおうという策であったようです。彼らには税を免除し食料も与えたのですが、長くは続かず、また、この差別的扱いに反発した人々は、各地で反乱を起こすようになります。その首領はまた各地で「鬼」として語られていきました。
しかし、彼らの全てが馴染めず他の人々から浮いて「鬼」になったわけではありません。彼らは元々狩猟民ですから、狩猟技術を生かし、時代とともに為政者に武力として活用されるようになっていき、武士へと転化する者が生まれます。
平安時代の関東地方は、野盗が駆けまわるような荒れた地であったようです。それが組織化されて、武蔵七党と呼ばれる勢力となっていくのです。その中の一つ野与党(のよとう)は、現在の埼玉県白岡付近を本拠にしましたが、彼らをまとめあげていたのは鬼窪氏と呼ばれる一族でした。鬼が恐れられるなら、鬼の名前で自らも名乗ろうというところでしょうか。
足利政権の時に起こった足利氏の内紛(観応の擾乱(かんのうのじょうらん))では、足利尊氏側に鬼窪弾正左衛門、鬼窪左近将監の名前があります。鬼はいつしか、有能は武士に姿を変え、社会に必要とされ認められて行ったようです。
東北地方に残った俘囚もまた、関東の武士とは別に大きな力をつけていきます。租税を免除される特典と、採集物の交易から、どんどん力をつけていき、俘囚長であった安倍氏は奥州の大豪族と成長します。安倍氏は一時期、現在の青森県から宮城県までを治める大豪族にのし上がりますが、前九年の役で出羽清原氏に取って代わられました。現在の安倍晋三首相の祖先は、この奥州安倍氏なのだそうです。
出羽清原氏は、前九年の役の功績により、俘囚から従五位下鎮守府将軍となり、なんと貴族の仲間入りをしてしまうのです。出羽清原氏以外にも奥州藤原氏のように一時代を築いた一族も登場したのです。