邪馬台国


南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬有り。次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、次を奴佳鞮(テ)と日う。七萬余戸ばかり有り。

摂津の国から南へ水行10日、陸行1月。記録された行程に沿って進むなら、不弥国から、摂津の国迄の半分の距離を航海し、その後内陸に入っていかなければなりません。実際にこの記録に従うとどこにいくのかと言えば、紀伊半島の南端を越えて少し進んだ所から、内陸へと入っていくことになります。この道は、神武の東征の道に他なりません。
神武の東征2

中国の24史のひとつ、「北史倭国伝」には、「東夷の人は里数を知らない。ただ、日数で計っている。」と記載されています。つまり、魏志倭人伝の魏の使者は、不弥国以降は、実際に旅をせず、聞き取った内容を記録しているのです。24史を丹念にひも解いてみると、実際に邪馬台国に入った人は、608年の裴世清迄誰一人としていないのです。こうして、邪馬台国は幻の国となりました。
では、水行10日陸行1月は出鱈目なのかというと、そうではありません。魏の使者は間違いなく、この数字を聞いたのだと思います。本文中にある、「倭の地を参問すると(いくつか問うてみると)海の中で洲島の上に絶在している。或は絶え、或は連なり、周旋すると5千余里ばかり」という内容は、どう考えても瀬戸内海を言い表した内容です。従って、魏の使者が問うたのは、不弥国から投馬国を繋いでいた海の民だと考えます。海の民だからこそ、陸行1月が概数になったと考えます。その上で、神武の東征は実際にあったのではないか?それが伝承として伝えられているからこそ、この行程を示したのではないのかと考えます。伝承は遠い昔のことではないと考えると、日本書紀の中に神武東征が、甲寅の年に始まったと書かれていることから、作者は174年のことであると推測します。
桜井市
同時代の話と思われる、日本書紀の崇神天皇の記載の中に、天照大神と倭大国魂の2柱を、天皇の居所(磯城瑞宮から移したという記述があることに注目し、「倭大国魂」は、「やまとのおおくにたま」と読むのではなく、倭国そのものの神(東征を行った先祖神)ではないかと考えます。だからこそ、この地が女王の居する場所であろうと結論づけます。
この時、天照大神を祀るためにつけられたのが、豊鍬入姫です。これこそが台与のことなのではないかと考えます。時代をおいて、天照大神を祀る斎王の制度が作られますが、豊鍬入姫こそは斎王の走り。共立された王は、力をもってねじ伏せる王ではなく、神の声が聞ける王である。だからこそ共立されたと考えるのです。
対馬、投馬ともに、「馬」は現代の日本語の「シマ」の音に充てた物であるなら、邪馬台国は「ヤシマタイコク」でなければならないと考えます。ヤシマ大国とは、八島大国であり、これこそ記紀に記されている日本の名称である大八嶋国のことではないかと推論しています。