隠された系図



現在、発売中の「隠された系図」をご紹介したいと思います。

陵墓の謎


古墳の治定2
現在、宮内庁が管理している陵墓は、天皇陵が112、皇后陵が76、これ以外の皇族の墓や伝承によるものを陵墓参考地として管理していて、その数は全部で458箇所にものぼります。昭和天皇が124代の日本国天皇でしたので、管理されている数からいくと当然、そのくらいになるのですが、このうち陵墓に指定されている天皇の「古墳」はというと41基になります。そして、驚くべきことに、この41基の古墳ですが、その治定(埋葬されている天皇)が正しいものは、ほとんどありません。数カ所をのぞいて明らかに間違っているのです。
畿内には、大きな古墳群が5つ程あります。西から順番にいくと、仁徳天皇陵のある百舌鳥古墳群、応神天皇陵のある古市古墳群、葛城一族の墓地と言われる馬見古墳群、大和の北平城京の裏にある佐紀盾列古墳群、そして、箸墓や崇神天皇陵などがある大和東南部の古墳群です。これらの古墳は、時期を同じくして作り続けられていたため、あきらかに各部族の王を埋葬した墓地なのです。纏向遺跡を含む大和東南部は最初にできた大和王朝一族です。この古墳群は、佐紀盾列古墳群へと場所を移動させました。そして、葛城の馬見、応神の古市、仁徳の百舌鳥と4つの大きな部族が畿内には存在したのです。
日本の歴史は、崇神、垂仁、景行、日本武尊、仲哀、応神、仁徳、履中が全て親子で繋がっているといいます。しかし、現実には4つの部族が存在していたのですから、全て親子の訳がないのです。

纏向王朝


崇神の名前は、「いにえ」でした。垂仁の名前は「いさち」でした。どちらも「五十」という漢字をあてて「い」と呼ばしています。五十は「い」ではなく「いと」です。「いと」の名を繋ぐのは、伊都国とかかわりがあるからなのです。この纏向王朝は、畿内のそれも限られた範囲しか征圧していません。大和、山城、伊賀、伊勢、摂津、それに近江の一部と、美濃の一部です。彼らが行ったのは、武力による平定ではありませんでした。あくまで、天照大神の布教活動であったのです。最初に目指したのは、日本列島の東、現在の鹿島神宮の地であったと思われますが、残念ながら尾張にも入ることができませんでした。

新羅の部族


一方、新羅の部族は若狭の敦賀に都を作り国づくりを始めます。彼らは、新羅の最初の王朝の氏族です。新羅は朴氏から昔氏へと王朝が代わり、朴氏の一族はその地を追われました。この一族が、新羅奪還をめざして、新羅を攻撃し続けます。昔氏への復讐を果たした彼らは、鉄を求めて畿内を周り、纏向王朝と戦うことなく但馬、若狭、近江を平定し、そして、河内へと入ってきます。彼らが最初に作った古墳が、あまりにも美しい津堂城山古墳でした。
(但馬で出土した船団の線刻画)

古墳築造の競争


倭の国において、最も力をもった部族は誰なのか。新興勢力の河内の「ホムタ」一族に対し、纏向王朝も巨大な古墳を造り力を誇示していきます。しかし、河内の石津ヶ丘古墳(伝履中天皇陵)により、その力は逆転します。そして、真似のできない古墳を応神陵、仁徳陵と作っていくのです。この時点で「ホムタ」一族が倭において最も力をもった一族となるのです。
応神天皇の名前は、誉田別といいます。では「ホムタ」とは何でしょうか。日本書紀は、応神天皇の腕の上に盛り上がった肉が、弓の防具「
(ほんだ)」に似ていたことに由来すると書いています。しかし、品田真若王の娘を嫁にするなど、「ホムタ」は応神天皇一人の名前ではありません。韓国の慶州(キョンジュ)地方には「ホムタギ」という言葉があります。大木が二つに別れる場所が「ホムタギ」です。「ホムタ」は、「ホムタギ」が転訛したもの。そして「ホムタ」一族は新羅の王族だったのです。

認められない「ホムタ」一族


継体天皇系図
しかし、あくまで新興勢力のホムタ一族は、大王として認められた訳では有りませんでした。上宮記に残る名前は「凡牟都和希王」、対して纏向王朝の垂仁天皇は「伊久牟尼利比古大王」なのです。本来ならば、吉備や尾張と同様に一豪族として処理してしまいたかった日本書紀編纂者達でしたが、それができない理由が存在しました。それは、彼らが中国(宋)に朝貢し官位をもらったことが宋書倭国伝をはじめとする歴史書に記載されていたためです。これが「倭の五王」です。このために、彼らが倭の大王であったと認めざるをえなくなります。

日本書紀編纂者達がとった行動


天智天皇の作った「不常改典」。天武天皇が始めた皇親政治は、天皇家の不動の地位の確立でもありました。血筋だけが唯一の条件とすることで、天皇家は他の部族に取って代わられることがなくなります。このためには、この血筋が、神武以降延々と繋がったもの、神の血筋でなければなりません。しかし、中国の歴史書に残してしまった事実を取り込むために、新たな系図が作られました。それは、纏向王朝の系図と「ホムタ」一族の系図をひとつにすることでした。その系図が、日本書紀として現在にも残ってしまっているのです。

三国史記に綴られた「倭」の姿。書き換えられた日本書紀の記述。そして次々と現れる動かざる証拠。本当の歴史を追い求めて、歴史探求社は考えます。是非、皆さんも「隠された系図」を通して、本当の歴史の姿を考えていただければと思います。歴史探求社は、本の最後で真実の系図を載せています。また、この一本にされた系図により、ぐちゃぐちゃになってしまった古墳の治定を、史実に合うように治定しなおしています。