私達の源流「倭」


倭の存在


「倭」がいつから、日本を指すようになったかは定かではありませんが、いくつかの中国の歴史書の中には、「倭」という言葉が出てきます。西暦50年頃、王充が表したと言われる論衡という書物に、「周時天下太平 
倭人來獻鬯草」という文が出てきます。周の時代太平の時倭人がきて暢草を献じたと言っているのですが、周の時代と言えば紀元前1000年頃のこととなります。暢草にもいろいろと説はあり、ウコンだとも言われていますし、酒に浸して飲むと良い香りがしたという文献もありますのでハーブかなにかの一種だったのかもしれません。いずれにしろ、日本にはなかったものと考えられます。紀元前300年頃の山海経になりますと、蓋国という国を説明するのに、鉅燕の南で倭の北にあると説明します。倭は燕に属すると続きます。燕は渤海湾の北側にあった国です。となると、その南にあたる倭はどこにあったのかということになります。もしかすると、中国大陸の一部にも、倭と呼ばれる人々が住んでいたのかもしれません。
有名な
魏志倭人伝には、狗邪韓国という国は、倭の北岸にあたると書かれています。韓は南を倭に接するとも書かれています
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から、こうなってくると朝鮮半島の南端も倭であったということになります。金印で有名な、倭の奴国が朝貢し印綬を受けたのは西暦57年です。この時のことを、後漢書東夷伝は奴国(今の福岡県春日市周辺)は倭の極南界と伝えています。倭は未だ朝鮮半島南端から北九州迄の地域でしかありえませんでした。それが、どんどん広がっていき、少なくとも大和朝廷の頃には、近畿以西をカバーするようになります。日本書紀の記述を信じるなら、崇神天皇の派遣した四道将軍により日本列島の主要部分をカバーしたことになります。

倭の意味


では、倭とは何だったのかということを再度考える必要があると思います。倭は、元来、中国に人々から見た時の東方の辺境地域に住む人々の呼び名であったのかもしれません。
釈日本紀では、倭は、「我」の転訛したものではないかと書かれています。吾を国名と誤解したという解釈もあったかと思います。異称日本伝では、古来「女を以て主となす」から倭の字が当てられたのかもしれないと書かれています。女王国であった卑弥呼のことを踏まえての推理です。「うまい、座布団一枚」と言いたくなる解釈です。しかし、残念ながら想像を絶する古代から、倭であったのですから多分違うと思います。Pasted Graphic

同一言語集団であった倭


同一の言語集団を指したのかもしれません。同一民族の重要な基準のひとつは、同一言語の使用です。
姜吉云(カンギルウン)と言う言語学者が「倭の正体」という本を書いています。彼は、朝鮮半島と日本は古代同じ言葉を使っていたというところから出発します。そしてその言葉は、ドラヴィダ語であったといいます。彼の訳によると、多くの日本の地名が朝鮮半島の地名や由来を意味します。そして、「倭」は、朝鮮半島の南部にあったものが、いつしか大和倭、すなわち今の日本だけを指すようになったと言うのです。だからこそ、日本書紀の中には朝鮮半島の歴史が書かれていると言います。確かに、日本書紀の継体までのお話は、朝鮮の歴史を真似たものになっています。また、ドラヴィダ語なのか、何語なのかはわかりませんが、日本語や韓国語の元になったであろう共通語があったことは確かかと思われます。
実際、魏志倭人伝に出てくる
一支国である壱岐に行くと、多くの言葉が残っています。壱岐では、原の辻と書いて(ハルのつじ)と読みます。九州には、原とかいてハルと呼ぶ地名が前原(まえばる)、西都原(さいとばる)など多数あります。どうやら、ハルは、集落を表したようです。同じように、壱岐では、それぞれの町を触(ふれ)と言います。本村触、永田触、大原触と、全て最後に「触」がつきます。このフレというのも、集落と言う意味のようです。壱岐では港には、全て浦がつき、陸地の集落には触がつくのです。これは、古代朝鮮と日本で使われた共通の言葉が残っているのかもしれません。

国としての倭国 そして、私たちの祖先


広い意味での倭は、一種辺境地域に住む人々の総称に近いものがあったのだと思います。今で言うところの西洋人という訳の分からないくくりに似ています。しかし、国として「倭」を用いるとするならば、倭はどんな人を指すことになるのでしょうか。
魏志倭人伝の中で、倭の北岸として紹介されている狗邪韓国には、韓の字が入っています。魏志の東夷伝の中では、韓は別の国として記述されています。狗邪韓国は、倭であったのでしょうか、それとも、韓であったのでしょうか。逆に、奴国が金印をもらった時、倭は北九州迄でしたが、その時でさへ、日本列島には非常に多くの人々が住んでいました。各地で発見の相次ぐ縄文集落はもとより、弥生集落においても、そこは倭ではない日本であったことになります
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北九州の末盧国や、伊都国、奴国の存在した佐賀県、福岡県には多くの
支石墓が発掘されています。支石墓はもともと、朝鮮半島で行われていた埋葬方法です。すなわち、海を渡ってきた人々が定住し、もしくは、現地の住人を武力で制圧し、国をつくり、文化をもたらし、それが、末盧国や伊都国、奴国に発展していったことは確実だと判断されます。このように考えると、倭国とは渡来人の作った国と言えるのかもしれません。もちろん、原住民と渡来人は交わっていったでしょうから、その血はどんどん混ざり合って日本人を形作ったとも言えます。それが記載されているのが、古事記や日本書紀に記されている神話の世界であるのがと思います。しかしながら、日本ではなく、倭であった頃は未だ渡来人の影響の方が強かった、もしくは、血の方が濃かったと言えるのだと思います。それは、倭が大和地方に都を移した時も同じであったと思います。
東アジアでは、多くの覇権争いが繰り返され、中国大陸、朝鮮半島では多くの人々が移住することを余儀なくされてきました。その度に海を渡って、たどり着いた地は東の端の日本であったはずです。間違いなく、倭は渡来人が代々積み重ねて作り上げた国であり、それが、現在の日本人に至った主流なのだと思います。


参考文献;
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