白ひげさんの伝説 高麗若光



 埼玉県の日高市を中心として、川越市、狭山市、入間市、飯能市、鶴ヶ島市には、約30社もの「白(しら)ひげ」と呼ばれる神社が点在します。「これは、何だろう」というのがそもそもの始まりでした。埼玉県の神社と言えば、武蔵一の宮と称される、さいたま市の大宮にある「氷川神社」です。欠史八代の天皇のひとり、孝昭天皇の時に創建されたと伝えられますが、これはありえません。「国造本紀」の中では、成務天皇の時に出雲の兄多毛比(えたもひ)命が、武蔵国造になったとの記録があります。祭神が、須佐之男命ですから、この頃の創建なのではないかと考えます。この氷川神社の勢力は強く、埼玉県一円に分社を持ちますが、特に荒川流域には氷川神社が非常に多く存在します。しかし、荒川流域を離れ、内部に入っていくと白髭(鬚)神社の存在が目立つようになります。


白鬚神社


 白鬚神社の総本社と言われるのは、滋賀県高島市に存在します。琵琶湖に鳥居が浮かぶ非常に大きな神社で、猿田彦大神を祀ります。西側には、比良山(ひらさん)があります。垂仁天皇の時に、倭姫命により作られたと伝えます。しかし、「隠された系図」の中に倭姫の行幸の跡を示していますが、琵琶湖の対岸である坂田宮には2年の滞在が記録されていますが、高島へやってきたという記録はありません。可能性が無くはないですが、違うのではないかと思います。天武天皇から比良明神の号を賜るとも伝えますから、その頃には存在していたと思われます。
 「比良」は「白(しら)」に通じます。「新羅」は「しらぎ」と日本語読みしますが、「羅」を「ぎ」と呼ぶことはありえませんから、何かの文字がもうひとつ付いていたと思われます。つまり、新羅は「ぎ」がない「しら」が当時の日本での発音であったのだと思われます。韓国語では、今でも「シルラ」です。つまり、この近辺は新羅からの渡来人が住み着いた場所であったのだと思われます。「ひげ」については、あくまで推測の域を出ませんが、私は、「けひ」のことなのではないかと考えます。「食」は古来「け」と呼ばれました。屯倉は、御食であって「みやけ」なのです。これも「隠された系図」の中で紹介しましたが、気比神宮は、「食」の神、つまり「け」の「霊(ひ)」を祀ったために「けひ」と呼ばれるようになりました。つまり、「白鬚」とは、新羅の食の神、「しらけひ」が転訛したものではないかと思うのです。とにもかくにも、「しらひげ」神社は全国に散らばっていますが、これは、新羅からの渡来人が住み着いた場所で食の神を祀った場所だったのではないかと考えるのです。


埼玉の白鬚神社


 だとしても、埼玉の分布は少し異常です。集中している理由があるはずなのです。分布をもう少し詳しく調べてみると、北は高麗川、南は入間川迄の間に集中しています。ここにあったのが、高麗郡です。また、白鬚神社は、白鬚、白髭、そして白髪と書いて、全て地元では「しらひげ」と呼ばれています。字は後から充てられたものだと思いますが、隣接する神社を区別するために字で分けたのではないでしょうか。
 また、特徴のひとつとして、「村社」が多いのです。神社は、明治の太政官布告で、官幣社、別格官幣社、国幣社、府県社・郷社・村社・無格社に分類されましたが、無格社ほど小さくないが、地元の人々によって大事に守られてきた神社です。村祭りが行われた場所と言えばわかりやすいかもしれません。かといって、国や自治体からの関わりは全くない神社です。人々に慕われ、愛されてきた場所なのです。
白髭神社地図31


高麗(こま)郡の設置


 続日本紀に、元正(げんしょう)天皇の時、「以駿河甲斐相摸上総下総常陸下野七國高麗人千七百九十九人 遷于武藏國始置高麗郡焉」という記述があります。東国の7つの国から1799人を集めて、高麗郡を設置するという意味です。716年の出来事です。この少し前、東アジアの勢力図は大きく変化します。中国では隋が滅び唐ができます。力を持つ唐は、地勢拡大に励み巨大な帝国を築き上げます。これを受けて朝鮮半島も激動の時代を迎えます。最も力の弱かった新羅は、いちはやく唐に冊封し、唐の属国となります。そして、唐の力を借りて、まずは宿敵の百済を滅ぼします。日本も百済再興に力を貸しますが、白村江の戦いで惨敗します。百済が滅ぶと、次は高句麗を攻めます。北からは唐が、南からは新羅に攻められて、668年高句麗も滅亡してしまいます。この頃、非常に多くの人々が海を渡り日本にやってきました。特に、新羅に始まった半島からの脱出は、百済の王族、そして、高句麗の王族へと続きました。渡来人の多くは、最初都の近くに住みましたが、奈良の政権は彼らの処遇を持て余すようになり、東国への移住政策を進めました。
 高句麗の人々の痕跡は、地名や遺跡で知ることができます。甲斐の国では、巨摩郡という地名が残ります。相模には、高麗山があります。東京の狛江市も名前を残します。狛江にある亀塚古墳からは、高句麗の古墳壁画に描かれた絵が彫られた金銅製毛彫金具が出土しています。こうして、分散され住まわされた人々を一箇所にまとめて作ったのが、高麗郡です。
 移住政策の中でも、1799人というのは非常に人数の多い移住です。高麗郡の中には、高麗郷と上総郷の2つの郷が置かれました。この上総郷にも、上総の国からの移住を思わせる名前が残ります。もともと、ひとつの「郷」の単位は500人程度とされていましたから、当時としては非常に人口密度の高い郡が設置されたことになります。


高麗若光(こまのじゃっこう)


 どうして1799人もの人々を、それも、7カ国に分散し、既に安住を始めた中で集められたのでしょうか。そこには、「高句麗」の復興という目的が隠されていたのではないかと思えてならないのです。そうでなければ、668年に滅んだ時から、50年も経っているのに再び新たな開拓地に出向こうとは思わなかったと考えるからです。
 この高麗郡がおかれた場所は、いわゆる空閑地であったと言われます。日高市教育委員会の中平さんにお話を伺うと、弥生時代、古墳時代の集落の跡は発見されていないとのことです。つまり、高麗郡ができるまで、人が住んでいない原野であったと思われるのです。この原野を開拓し、田や畑を作っていくとともに、窯の跡、製鉄の跡等も発見されており、急速な文化の流入があったことが伺えます。まさしく、「技術者集団」であったのでしょう。集まった1799人が、職能に応じて明確に役割分担を担い、短期間のうちに高度な文化的生活を送るようになったと見受けられます。そして、それを実現するためには、強力な指導者が必要とされます。それが、高麗若光であったと考えられます。
日本書紀
 666年、日本書紀には、高句麗からの使いが日本にやって来たと書かれています。その中の一人に玄武若光の名前があります。666年と言えば、唐と新羅からの挟み撃ちに合いながら、必死で戦っている時です。日本に高句麗の味方についてくれという依頼であったのかもしれません。そして、続日本紀によると文武天皇の時の703年、「従五位下高麗若光に王(こきし)の姓を賜う」との記載が登場します。玄武若光と高麗若光が同一であるなら、既に40年近くがたっています。従五位下であったわけですから、既に、日本の政権からは認知されているだけでなく、貴族の一人として体制に取り込まれていることになります。高麗若光が出自が確かな王族であったことを物語ますが、それ以上に、この段階での王の姓の授与は、既に高句麗からの渡来人を組織し、ある土地で名をなした首長になりつつあったことを意味します。この地とは、神奈川県の大磯であったと思われます。高麗山の下にある高来神社が、その伝承を伝えます。また、町の祭りに歌われる木遣り歌の中に、この伝承が残されています。
 ここからは、想像になりますが、若光が日本に住んでいる高句麗人達に、高句麗国の復興をなしとげようと呼びかけたのではないかと思われます。であったからこそ、1799人もの人数が集まり、郡が設置されることになったのではないでしょうか。そして、その指導力により非常に慕われた。
若光墓
 中心となったのが、高麗神社であることは疑いがないですが、この高麗神社も昔は「白髭神社」と呼ばれていたこともあるようです。高麗神社は、高麗若光を祀るとともに、代々直系の子孫が宮司職を継いでおられます。「白髭神社」は、いつしか、高麗若光のイメージと重なり、本物の「白鬚」をはやした若光を祀る神社へと変遷していったのではないでしょうか。この地で言われる「白髭明神」とは、高麗若光に他なりません。


一歩進んで


渡辺宮司
 高来神社と、高麗神社が同じ経度にあるのも偶然ではないと思われます。高来神社の渡辺宮司さんは、高句麗の直線文化の現れであると言っておられました。
 一歩進んで、私は、四神の考えを当てはめているのではないかとも推測します。玄武若光の名前からもわかるように、若光は玄武、すなわち、北の守り神でなければならなかったのではないかと思うのです。青龍の地が上総、大磯に朱雀、甲斐に白虎であったのではないかとも考えます。
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 高麗郡の設置は、大変な成功であったのだと思われます。その後、埼玉県には、幡羅郡(はらぐん)と新羅郡が設置されます。渡来人の文化や知識を活用し、再生しようとする活力を利用するという良い政策であったのかもしれません。
 実は、この高麗郡の場所というのは、非常に微妙な要素を含んでいるところでもあります。ひとつは、幡羅郡(はらぐん)や新羅郡とともに、武蔵国で力を持っていた笠原一族を囲い込むことのできる場所であるのです。もうひとつは、秩父から群馬にかけて、当時大きな力を持っていた羊一族の牽制です。
 高麗郡及び、高麗若光は調べれば調べる程深く、まだまだ解明されていない、多くの謎が隠されているのです。


白髭神社本当の秘密 (2014年1月30日追記)


 ある時、星空を眺めていて奇妙なことに気がつきました。「まさか」とも思ったのですが、どうしても気になります。そこで調べてみると驚くべき現実にぶちあたりました。下の図は、夏至の頃の星空です。スクリーンショット 2014-01-30 10.35.30
 丁度写真の真ん中にあるのが、北極五星のひとつこぐま座のβ星コカブです。右側には、北斗七星、そして左斜め上には現在の北極星こぐま座のα星ポラリスです。「現在の」というのは、地軸の関係で北極星は少しづつ変わっていくからです。今は、ポラリスが一番北極点(不動の位置)に近いためですが、例えば紀元前300頃はβ星コカブが北極星でした。
 この星空の分布、特に北極星や北斗七星を表す輝きの強い2等星、もしくは3等星の配置がどこかで見たことがあると気がついたのです。そうなんです。高麗神社と白髭神社の分布と同じなのです。丁度、高麗神社をβ星コカブだとすると、まさしく一致しているのです。玄武若光は、玄武(北)の空の不動の星となり、それを囲むように白髭神社が作られたのです。作られた当時、祭りの夜にそれぞれの神社で炊かれた火は、きっと星空の鏡のように地上で輝いたのだと思います。古代の人々の高麗若光への想い、そして、高句麗でも日高でも同じように見える空への想い、絶えること無く輝き続ける星への想いが旧高麗郡日高の地に広がっているのです。
 是非一度高麗の郷に訪れて、古代の人々の想いを味わってみてください。
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