神道の歴史


日本の古代史を考える時、必ずと言っていい程登場してくるのが、神社であり祭神です。そこに、宮があった、そこで戦いがあった、そこに埋葬されたと伝えられる時、それらの場所には神社がたっていることが多々あります。また、それぞれの神社で祀られている神は、それぞれの伝承に関連する神が祀られていることが多いのです。
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天皇家の宗教として、また、日本の国教として存在するのが神道であると思われている方も多いかもしれませんが、確かに神道に定められた様式に従い、様々な儀式がなされますが、神道は厳密な意味で天皇家の宗教ではありません。また、もしろん国教でもありません。そのように感じるのは、丁度、相撲が国技と言われるのと似ているのかもしれません。


「古式ゆかしいしきたりに則り」の嘘


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各地の神社で行われている全てではないにしろ、そのほとんどが「古式ゆかしいしきたりに則り」と言うのは、全くのデタラメです。
神社が少なくとも、現在の形になったのは明治以降のことです。そもそも明治時代のはじまりは、「王政復古」すなわち、天皇中心の政治に戻すこと。言うなれば、古代の祭政一致の世に戻すことでした。ですから、記紀はバイブルとなり、始祖は神武天皇となりました。
しかし、明治以前、特に江戸時代においては、寺請制度によりどの人も皆どこかの寺の檀家になることが義務づけられていました。そして、これに基づく、宗旨人別帳こそが、戸籍謄本の代わりをしていたわけです。ここから外れた人が、「非人」であり差別階級として扱われました。「士農工商」のどれにも属することがなかったわけです。
寺がとんでもなく強い組織であったわけですから、神社は寺の一部として、もしくは、一体と成ったものとして存在していました。これが、神仏習合の実態です。


神と仏はいつから混じったのか?


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仏教が日本に伝わったのは、現在、552年と538年の説がありますが、いずれにしろ欽明天皇の時(538年は宣化天皇ですが、残る書物には欽明天皇と書かれている)に管さの聖明王からもたらされた物となっています。仏教は伝わった時点で、既に非常に体系化された考え方や世界を持っていました。一方、その頃から神道の元になるようなものは存在していたはずですが、それは慣習の一つとして受け入れられていたことから、仏教の中に集約されることになったと考えられます。
但し、その傾向が顕著になったのは、蘇我氏と物部氏との争いからだと考えられます。


神と仏の争い


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神道の元になったもの、すなわち、大和政権の中で信奉された神を祀っていたのは、物部氏であり、中臣氏でした。これらの氏族は、神を祀ることを生業としていた氏族です。一方の蘇我氏は朝鮮半島からの文化の受入に積極的であったと言われています。日本書紀の欽明天皇の条には、天皇が譲り受けた仏をとうしたものかと問うた時、蘇我稲目は受容することを進言し、物部尾輿と中臣鎌子は180いる日本の神(国神)怒りを買うと言って反対します。所謂、崇仏廃仏論争です。一時期、物部・中臣が勢力を持ち、仏像の廃棄や寺の焼却を黙認します。次の世代である蘇我馬子、物部守屋になると、次の敏達天皇は廃物希釈を実施しますが、次の用明天皇から大きく流れが変わります。そして、武力で、蘇我馬子が物部守屋を倒すに至り、完全なる仏教の時代がやってきます。
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神の整理の仕方


日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩と呼ばれる成仏を求める修行者や天部と呼ばれる密教の神々なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん、「権」は「仮」)であるという整理の仕方がなされるようになります。これを本地垂迹(ほんじすいじゃく)説と言います。仏教は世界中どの国であっても、既に確立した宗教を持つ土地に入り込んで布教活動を行います。このため、常に土着の宗教を包含していく必要がありました。このために作られた考え方で、「皆さんの祀っている神は、仏が形を変えて表れたものです」と説明して仏教に取り込んでいったわけです。
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これにより、生まれたのが「xxxxx権現」と言われる神(仏)です。現在でも、熊野権現、愛宕権現等名前を残しています。
ちなみに、熊野十二所権現では、伊弉冉尊=千手観音、伊弉諾尊=薬師如来、国常立命=阿弥陀如来、天照大神=十一面観音、天忍穂耳命=地蔵菩薩、瓊瓊杵命=龍樹菩薩、彦火々出見尊=如意輪観音、などに割り当てられています。天照や、瓊瓊杵命の位置づけには、少し違和感を感じるのは、熊野の神が天照系ではないからなのかもしれません。


仏の中での神の出世


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天武天皇の時、天皇中心の国家体制が整備されます。この時、天皇家の氏神である天照大神が日本民族の代表の神として位置づけられます。この後、作られた記紀の中でも天照大神を祀ることの重要さが記載されています。この時、仏教の中においても神様の格上げが行われます。そして、菩薩になった神があらわれます。代表的なのが、応神天皇こと八幡神は、八幡大菩薩となりました。現在の宇佐神宮も、延喜式に記載されている名前は、八幡大菩薩宇佐宮です。


神道の確立


鎌倉時代になると、まずは仏教ありきの中でも、本地垂迹説を日本において、また、各仏教宗派の中で整理しようという気運が生まれてきます。天台宗系の山王神道、真言宗系の真言神道(両部神道)などが確立していきます。日蓮宗では、法華神道がおこり、日替わりの神様である法華三十番神が祀られるようになりました。また、それと同時に伊勢神宮の外宮では、古くからの儀礼を体系化した度会神道(外宮神道、伊勢神道という言い方をされる本も見受けられるが、江戸時代の同名のものとは異なっている)がおこります。


吉田兼倶と吉田神道


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室町時代に入ると、ようやく仏教とは別次元で、日本における神の道なるものを確立しようする動きが表れます。それを成し遂げたのが、吉田兼倶(よしだかねとも)です。彼の起こした教義を、元本宗源神道といい、仏教ありきの両部神道や山王神道にではなく、反本地垂迹説を唱え、本地で唯一なるものが神であるとして森羅万象を体系づけた世界観をあらわすようになります。そして、『唯一神道名法要集』の中で、神道の考え方を整理し、仏教に依存する本迹縁起神道、両部習合神道、元本宗源神道の三種に分けられとし、最後の、元本宗源神道こそが、吉田家の祖先神であるアメノコヤネノミコトによって伝えられた正統的神道であると主張しました。また、仏教、儒教との関係を、仏教は「花実」、儒教は「枝葉」、神道は「根」と表現し、仏教や儒教が神道の上に成り立つ物であると示しました。吉田家は、兼倶の父の代まで卜部家であり、古来の神道を引き継いでいた家柄であることは間違い有りません。しかし、兼倶以降、皇室の白川家に変わって吉田家が神道の家元になり、権限を持つようになりました。


仏教との大逆転


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江戸時代迄は、仏教の一部としてしか見られなかった神道に、大逆転が行われるのが明治維新です。ここで、神仏分離令(神仏判然令)が出されます。これによって、権現が消滅し、八幡大菩薩も八幡大神へと名前を変えます。法律は、神と仏の違いをはっきりさせましょうということに主眼がありましたが、人々はそうは受け取らず、廃仏毀釈、すなわち仏教禁止の法律のように受け取られました。時代がかわり、制度が変わったと受け取った民衆は、寺請制度の呪縛から逃れられると喜び、寺院の打ち壊しへと発展します。そんな中で、寺であったところは神社であると言い張るようになります。妙楽寺は談山神社(藤原鎌足を祀る)、大山寺は大神山神社、松尾寺は金刀比羅宮(讃岐の金比羅さんです)と変わっていきます。断念することに成りましたが、法隆寺も神社になろうとしたのです。


国政への中への組み込み


明治維新の理想から、神道国教化が模索されていたことも確かです。明治4年には、神祇の祭祀と行政を掌る機関として律令制以来の神祇官に代わって神祇省(じんぎしょう)が設置され天皇による祭政一致がめざされました。組織が確立するに伴って、教部省へ、そして内務省へと移され、明治33年には神社は内務省神社局、それ以外の仏教やキリスト教等他の全ての宗教は内務省宗教局へと管轄が分けられます。戦後は、もちろん、文部科学省の中の外局に追いやられています。