遂に出た!古墳時代の馬具一式出土 福岡県古賀市 

 福岡県古賀市教育委員会は、4月18日古賀市の谷山北地区遺跡で、6世紀末〜7世紀初頭に築造されたと考えられている船原(ふなばる)古墳(直径20メートルの円墳)に隣接した穴から、同じ時期の金銅製の馬具が一式そろって見つかったと報告しました。馬具埋納坑は7世紀初頭前後に築かれた船原古墳の5メートル隣に存在し、長さ5.2メートル、幅0.8メートル、深さ0.7メートルほどの長細い穴であり、その中に馬具がまとめて納められていた。
 鉄製の壺鐙(つぼあぶみ)や輪鐙(わあぶみ)、金銅張りの鞍(くら)、ひもを連結する辻金具(つじかなぐ)や引手(ひって)、雲珠(うず)や杏葉(ぎょうよう)、鈴などの装飾品のほか、馬用の冑(かぶと)や甲(よろい)ではないかと見られる鉄製品も多数ある。鞍や鐙の数から2セット以上の可能性もあるということです。

 新聞等の各種報道では、藤の木古墳をはじめとしてほとんど例のない出土であり、国宝にならぶ優品だとか、葬送儀礼を解明する手がかりとなるなどの報道がされていますが、その程度の発見ではないのです。この発見には古代の秘密が隠されているのかもしれません。

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 まず、発掘された品々は次々と解析されており、その豪華さならびに意匠の複雑さは他に類を見ない程際立ったものとなっています。左の写真は出土した馬具の中で九州歴史資料館が復元した馬の背につける歩揺付き金具と呼ばれる物です。また、金銅装心葉形杏葉は、馬の尻や胸に回したベルトから吊り下げる飾りですが、CTスキャンの結果そこには鳳凰が描かれていました。奈良にある藤の木古墳は、6世紀後半に作られた全長50メートルの円墳です。ここからも同様に金銅製の多くの馬具が出土しましたが、その鞍金具に彫り込まれていた鳳凰は、船原古墳でみつかった杏葉の鳳凰と同じ人のデザインであると考えられる程非常によく似ています。藤の木古墳で見つかった鞍の形は、中国北部の遊牧騎馬民族の物だと言われています。また、藤の木古墳の被葬者は、蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子と宣化天皇の皇子の宅部皇子ではないかと推測されています。
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 問題は、6世紀の末から7世紀にかけて、この船原古墳に埋葬された人物が、どうして天皇家の皇子と同じ程度か、それ以上の副葬品を持つことができたのかということです。船原古墳は、船原古墳群とされており、現存する3号墳以外に2基の古墳があったとされています。単独の古墳でないことから、それ程古くはなくともこの地域を収めていた有力な豪族の墓であったと言うことができます。
 そもそも、古賀市とはどのような役割を持つまちであったのでしょうか。著書「魏志倭人伝を探る」の中で、この古賀市から宗像市一帯を『不弥国』として紹介させていただきました。そこで紹介させていただいているのは、古河市青柳町の弥生遺跡である
馬渡・束ヶ浦遺跡です。今回の対象古墳のある谷山は、そこから数百mの地点になります。
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 そして、不弥国は多岐の港であるとともに、これより西の勢力から北九州にできた伊都国連合を守る防波堤の役割をした地であったと紹介させていただきました。加えて、この地は朝鮮半島の伽羅(金官伽耶、狗邪韓国)からの武力をもった一族の侵略により勢力を奪われ、海上交通の支配権を奪われ、伊都国連合は大和から切り離されて衰退したことを説明させていただきました。また、その一族が宗像一族としてこの地に根付いたこともです。
 壱岐の島の都の、原の辻遺跡が忽然と消え、その後に中心地を移し非常に多くの古墳が作られたのも、同じ部族による侵略であったとも説明させていただいています。江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説を証明する資料が、壱岐と宗像には残っていると説明させていただきました。
 この地は古来より、航路や港を支配してきただけに、朝鮮半島と密接な関係にあり重要な外交の地でもあったのです。

 時は、6世紀末。朝鮮半島が大きく揺れ動いた時期でもあります。日本書紀には「任那日本府」が新羅によって滅ぼされたとの記述がありあす。任那日本府の存在は議論のあるところですが、そこで起こっていたのは新羅の伸張と、倭(ヤマト政権)の影響力の追い出しでした。私は、少なくとも新羅により朝鮮半島との外交権が奪われたのだと考えています。
 推古天皇の時代となり、蘇我氏、聖徳太子との三頭政治が始まります。推古天皇8年(600)任那救援を掲げて、朝鮮半島に出兵します。征討大将軍は境部摩理勢(さかいべのまりせ)でした。蘇我一派のヤマト政権の重鎮です。6つの城を陥落させ、難波吉士神(なにわのきしみわ)が新羅におくられます。この後、任那と新羅は倭に朝貢をはじめたと記されています。しかし、現実は厳しく、倭が退いた後、新羅は再び任那に侵攻します。
 推古10年(602)、再び新羅討伐が計画されます。今度の征討大将軍は来目皇子です。蘇我一派から聖徳太子の弟に変わりました。2万5千という大軍を率いて筑紫国に至り、島郡に入ります。島郡は糸島半島。旧伊都国の北にあたります。日本書紀によれば、来目皇子が病気になってしまい、延期となります。2万5千の大軍はどうなったのでしょうか。推古11年(603)来目皇子の異母兄当麻皇子(たいまのみこ)が新羅征討将軍に任命されます。妻の舎人皇女が死んだからと当麻皇子は大和に戻り、結局新羅討伐は行われなくなります。

 NHKの番組では、この新羅と倭との外交を取り持ったのがこの船原古墳の被葬者であったのではないかとしています。同様の内容は、福岡大の桃崎教授も言われており「被葬者は糟屋(かすやの)屯倉(みやけ)にも関与していた有力者だろう。一触即発だった日本と新羅の間で奔走した対外交渉の窓口役だったため、新羅関連の馬具もあったのではないか」とコメントされています。船原古墳の西に、大型建物跡が確認された鹿部田渕(ししぶたぶち)遺跡があり、528年の磐井の乱により、筑紫君葛子(磐井の子供)が献上した糟屋屯倉があったのではないかと言われていることを念頭において話ておられます。
 私の考えは、少し異なります。528年の磐井の乱がそうであったように、やはり新羅の影響は、遠いヤマト以上に北九州地域に及んでいたのだと思います。日本を唐と対等の国にしようと考えていたのは聖徳太子でなく蘇我氏だと考えますが、蘇我氏は蕃国とし扱っている新羅が倭の領土を侵すなどということを許せなかったのでしょうが、聖徳太子一派は親新羅派であったのではないかと思うのです。病気だとか、妻が死んだという理由で新羅討伐を辞めたというのは、元々新羅など討つつもりはなかったのではないかと考えるからです。
 大和政権のものとなった糟屋屯倉のすぐ外側の地を治めていた人、それは、筑紫君葛子に使えていた重鎮であったはずだと考えるのです。新羅に通じていた人、という以上に新羅の駐日大使的な役割を担っていた人物ではないかと考えるのです。だからこそ、新羅の代表者として、倭の皇子に負けないだけの副葬品があった。そして、新羅のあった慶州にあるのと同じ20メートル程度の円墳に埋められたと考えるのが良いのではないでしょうか。

 時代とともに、新羅の痕跡は跡形も無く消されていったのだと思いますが、任那日本府にあたるような北九州新羅府のような跡が見つかるのではないかと期待しているのです。

世界最古の煮炊きの跡は日本にあった

4月10日イギリスの科学雑誌Natureで、日本の考古学論文がとりあげられました。Natureという世界のトップクラスの科学雑誌に日本の考古学が紹介されることなど、皆無に近いのが現状です。最近では、1986年の8月に日本の農業の起源というGina L.Barnesという人の論文が掲載されました。ちなみに、古いところでは1912年に先史時代の日本という論文があります。
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Simon Kanerによる「日本の土器の歴史」と題された記事は、「日本の縄文時代からの陶器の断片上に残る脂質の発見は、調理用の土器使用の最古の証拠を提供するとともに、人間の技術革新のいくつかの側面の再考を促す物である。」としています。この記事の元になった論文が、O.E. Craig他14名による「陶器の使用のための最古の証拠」と題された論文になります。この論文の共同執筆者の中には、Y.Nishida(新潟県立歴史博物館), J.Uchiyama(総合地球環境学研究所), M.Ajimoto(若狭歴史民俗博物館)という3名の日本人の名前があります。
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論文の要旨は、12000年から20000年前は、東アジアにおいて人間が変化する気候に対し順応し狩猟採取の革新が起こった期間であるが、陶器技術の出現と広範囲の分布の理由は能く理解されていない。また、最初の土器の使用方法も不明である。ここで、世界で最も研究された先史時代の陶器の流れをもつ日本の縄文土器の食品残渣の化学分析を報告する。今から15000年から11800年の間(縄文時代草創期)に製造された土器の破片に付着している黒こげの表面の堆積物から、有機化合物の明らかな処理から生じている淡水生物と海洋生物の脂質を確認した。動物の煮炊きが、陶器技術の発展への原動力になったと思われる。と、いうものです。
スクリーンショット 2013-04-19 10.26.59つまり、土器というものが煮炊きに使われた世界最古の発見であったということなのです。
土器が煮炊きに使われるのは当たり前じゃないかと思われる方もいらっしゃるとおもいますが、人間は土を焼いて器を作るという作業をおこなうきっかけになったのは何かという疑問を解明してくれるからなのです。
陶器もしくは、セラミックというのは人類における非常に大きな発明であることは確かです。それが(今のところは、ですが)古代の日本人であったというのは正直ちょっと嬉しい限りです。さかなを焼くには、串にさせばいいのかもしれませんが、煮ようとすると器が必要になります。粘土質の土をこねて作った器に入れて焼いたら、器が変質して固くなり容器として使えることを知ったというのが最初だったのかもしれません。

別の見方をすれば、日本人というのは世界一グルメだったということが言えるのかもしれません。煮ようという発想が起こるところに、日本人の感性の素晴らしさを感じずにはいられません。
鳥浜公園
今回の分析に使われた土器のひとつが、福井県の「鳥浜貝塚」から出土したものでした。鳥浜貝塚は、福井県の若狭町にあります。三方五湖という非常に風光明媚な中にある三方湖に面した場所にあります。非常に面白い遺跡で、古代の人々がゴミを三方湖に投げ入れて捨てていたのですが、そのゴミの上に土が堆積してそのままの形で残りました。縄文時代の草創期と言われる12000年前から縄文前期にかけてのもので、地元では縄文人のタイムカプセルと呼ばれています。投棄された物は、淡水魚、海水魚の魚類、淡水、海水の貝類、イノシシ、鹿、猿、うさぎ、狸、熊、犬、大神、カワウソ、猫、テン、アシカ、オットセイ、イルカ、シャチなどの哺乳類、それに鳥類や数々の木の実です。シソや、エゴマ、小豆、瓜、アブラナ、ごぼう等もありました。こうやってみて見ると、確かに煮炊きもしたくなる程の食生活であったことがわかります。非常に豊かであったことがわかります。また、縄の断片や、植物繊維を使用して作った、袋や網なども出土するとともに、丸木舟も出土しました。船にのって魚を捕っていたこともわかります。非常に高度な文明を持った大きな村を形成していたのだと思われます。若狭町には、若狭三方縄文博物館があります。

若狭は古代朝鮮語の行ったり来たりする所という意味の「ワカソ」が転じたものという説があります。朝鮮の歴史書「三国史記」の新羅本紀によりますと、第四代の王の脱解尼師今(だっかいにしきん)は、倭国の東北一千里にあった多婆那国(たばなこく)の出身だと記載されています。新羅へは、日本海を渡れば直接到達できます。この多婆那国こそが、鳥浜遺跡のあった場所ではないのでしょうか。脱解王には、瓢公(ひょうこう)と呼ばれた倭人の宰相がいたとも書かれています。瓢公は、海の向こうから瓢簞(ひょうたん)を腰にぶらさげてやってきたそうです。鳥浜貝塚では自然遺物としてこの瓢簞の果皮も出土しているのです。


平城京の中に壊された古墳群を発見

奈良県立橿原考古学研究所付属博物館が3月25日発表した内容によりますと、JR奈良駅の近くで、4世紀後半~5世紀後半(古墳時代前期末~中期後半)の推定全長約80センチの船形埴輪やや鳥、家などをかたどった埴輪など計12種類の土器や、復元すると高さ約75センチ、直径約55センチになる円筒棺が数百点見つかったそうです。周辺に未知の古墳群が存在したが、平城京の造営時に壊された可能性があると報告されています。
平城京
場所は、JR奈良駅から北へ1Km程いったところです。左の図を見てもらうとわかる通り、左京からはみ出して作られた外京と呼ばれる中での発見でしたから、平城京の造営時に壊されたというふうに発表されました。
確かに、そうではあるのですが、今回の発掘現場の数百メートル程東南方向に開化天皇陵とされている念仏寺古墳があります。開化天皇は、欠史八代の一人第九代の天皇で、次が実在した最初の天皇と言われる崇神天皇です。この念仏寺古墳は、5世紀末から6世紀の古墳と言われていますから、例え存在していても開化天皇などであるはずはないのですが、場所が春日率川坂上に該当するということで、この前方後円墳が開化天皇とされています。
江戸時代の治定後、この古墳を整備して前方後円墳の形に整え直したのですが、ここは一般の人の墓地として使われていたという悲しい現実を持つ古墳なのです。もちろん、前方後円墳であったのですが。
実は、何年か前この念仏山古墳の南側でも土器片が見つかり、その時もこの近くに別の古墳があったのではないかと言われました。
従って、コメントが出ています通り多分この地は、大和政権にいた上級官吏の墓地であったと思われるのですが、平城京の造営のために潰されたのだと考えられるのです。

そうであるとすると、問題は、開化天皇陵とされている念仏山古墳だけが、なぜ残されたのかという新たな疑問が生じるのです。
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大和の北東部は、元来和珥氏(わにうじ)の土地でした。多分、大和東南部にあった古墳群(箸墓、崇神天皇陵、垂仁天皇陵等)が一杯になった後、大和王家は和珥氏に依頼して、墳墓を大和の北側に作ってもらっていたのではないでしょうか。和珥氏は大王家の古墳の築造を肩代わりすることにより、力をつけた豪族であると思われます。ご存知のように、多くの大王の妃を出している家なのです。そして、和珥氏が築いた古墳群こそが、現在残る佐紀盾並古墳群(さきたてなみ)なのです。この佐紀盾並古墳群は、平城宮に接するように北に広がっている古墳群です。
従って、念仏山古墳は和珥氏の頭領の墓であったのではないかと想像するのです。それを知りながら、日本書紀の編纂時に存在しなかった開化天皇の陵として扱ってもらったのではないでしょうか。常に大王の側に居て、崇神天皇の時の彦国葺(ひこくにぶく)や、神功皇后の時の武振熊(たけふるくま)。また、独自の『和邇氏系図』等を残す実にしたたかな一族なのです。

大和は大和政権が始まった時、日本で最大の穀倉地帯であったのだと思われます。大和川の支流が、大和盆地にくまなく行き渡り、稲作には最高の環境を作り出していたと思われます。2週間前、御所市の中西遺跡のお話を紹介させていただきましたが、日本の中心が大和でなければならなかった大きな理由は、稲作の生産力にあったのだと思われます。
その稲作地を破壊して迄、古墳を作るという考えも習慣も、大和政権には存在していませんでした。大和盆地の中において、稲作に影響を及ぼさない土地は、和珥氏の持つ佐紀地域以外あり得なかったと言っても良いかと思います。
平城京の北側には、佐紀盾並古墳群が広がり、その北側には今は、京阪奈の新興住宅地が広がります。しかし、この地域には川がないのです。もっと北に行って木津川に辿り着く迄川がありません。使えない土地であった場所に、古代の人々は古墳群を作っていたのです。一時期、古墳の壕が灌漑用水に使われたのではないかという議論がありましたが、この土地では、その可能性もあったかもしれません。
平城京自体も、近くに大きな川がなかったことが衰退の原因だと言われています。物資の運搬があまりに不便であったことと、衛生上非常に問題があったからです。
生者より死者に重きを置くという非合理な考え方は、古代にはありませんでした。死者が眠る地には、その地なりの意味があったのです。