平城京の中に壊された古墳群を発見

奈良県立橿原考古学研究所付属博物館が3月25日発表した内容によりますと、JR奈良駅の近くで、4世紀後半~5世紀後半(古墳時代前期末~中期後半)の推定全長約80センチの船形埴輪やや鳥、家などをかたどった埴輪など計12種類の土器や、復元すると高さ約75センチ、直径約55センチになる円筒棺が数百点見つかったそうです。周辺に未知の古墳群が存在したが、平城京の造営時に壊された可能性があると報告されています。
平城京
場所は、JR奈良駅から北へ1Km程いったところです。左の図を見てもらうとわかる通り、左京からはみ出して作られた外京と呼ばれる中での発見でしたから、平城京の造営時に壊されたというふうに発表されました。
確かに、そうではあるのですが、今回の発掘現場の数百メートル程東南方向に開化天皇陵とされている念仏寺古墳があります。開化天皇は、欠史八代の一人第九代の天皇で、次が実在した最初の天皇と言われる崇神天皇です。この念仏寺古墳は、5世紀末から6世紀の古墳と言われていますから、例え存在していても開化天皇などであるはずはないのですが、場所が春日率川坂上に該当するということで、この前方後円墳が開化天皇とされています。
江戸時代の治定後、この古墳を整備して前方後円墳の形に整え直したのですが、ここは一般の人の墓地として使われていたという悲しい現実を持つ古墳なのです。もちろん、前方後円墳であったのですが。
実は、何年か前この念仏山古墳の南側でも土器片が見つかり、その時もこの近くに別の古墳があったのではないかと言われました。
従って、コメントが出ています通り多分この地は、大和政権にいた上級官吏の墓地であったと思われるのですが、平城京の造営のために潰されたのだと考えられるのです。

そうであるとすると、問題は、開化天皇陵とされている念仏山古墳だけが、なぜ残されたのかという新たな疑問が生じるのです。
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大和の北東部は、元来和珥氏(わにうじ)の土地でした。多分、大和東南部にあった古墳群(箸墓、崇神天皇陵、垂仁天皇陵等)が一杯になった後、大和王家は和珥氏に依頼して、墳墓を大和の北側に作ってもらっていたのではないでしょうか。和珥氏は大王家の古墳の築造を肩代わりすることにより、力をつけた豪族であると思われます。ご存知のように、多くの大王の妃を出している家なのです。そして、和珥氏が築いた古墳群こそが、現在残る佐紀盾並古墳群(さきたてなみ)なのです。この佐紀盾並古墳群は、平城宮に接するように北に広がっている古墳群です。
従って、念仏山古墳は和珥氏の頭領の墓であったのではないかと想像するのです。それを知りながら、日本書紀の編纂時に存在しなかった開化天皇の陵として扱ってもらったのではないでしょうか。常に大王の側に居て、崇神天皇の時の彦国葺(ひこくにぶく)や、神功皇后の時の武振熊(たけふるくま)。また、独自の『和邇氏系図』等を残す実にしたたかな一族なのです。

大和は大和政権が始まった時、日本で最大の穀倉地帯であったのだと思われます。大和川の支流が、大和盆地にくまなく行き渡り、稲作には最高の環境を作り出していたと思われます。2週間前、御所市の中西遺跡のお話を紹介させていただきましたが、日本の中心が大和でなければならなかった大きな理由は、稲作の生産力にあったのだと思われます。
その稲作地を破壊して迄、古墳を作るという考えも習慣も、大和政権には存在していませんでした。大和盆地の中において、稲作に影響を及ぼさない土地は、和珥氏の持つ佐紀地域以外あり得なかったと言っても良いかと思います。
平城京の北側には、佐紀盾並古墳群が広がり、その北側には今は、京阪奈の新興住宅地が広がります。しかし、この地域には川がないのです。もっと北に行って木津川に辿り着く迄川がありません。使えない土地であった場所に、古代の人々は古墳群を作っていたのです。一時期、古墳の壕が灌漑用水に使われたのではないかという議論がありましたが、この土地では、その可能性もあったかもしれません。
平城京自体も、近くに大きな川がなかったことが衰退の原因だと言われています。物資の運搬があまりに不便であったことと、衛生上非常に問題があったからです。
生者より死者に重きを置くという非合理な考え方は、古代にはありませんでした。死者が眠る地には、その地なりの意味があったのです。