世界最古の煮炊きの跡は日本にあった

4月10日イギリスの科学雑誌Natureで、日本の考古学論文がとりあげられました。Natureという世界のトップクラスの科学雑誌に日本の考古学が紹介されることなど、皆無に近いのが現状です。最近では、1986年の8月に日本の農業の起源というGina L.Barnesという人の論文が掲載されました。ちなみに、古いところでは1912年に先史時代の日本という論文があります。
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Simon Kanerによる「日本の土器の歴史」と題された記事は、「日本の縄文時代からの陶器の断片上に残る脂質の発見は、調理用の土器使用の最古の証拠を提供するとともに、人間の技術革新のいくつかの側面の再考を促す物である。」としています。この記事の元になった論文が、O.E. Craig他14名による「陶器の使用のための最古の証拠」と題された論文になります。この論文の共同執筆者の中には、Y.Nishida(新潟県立歴史博物館), J.Uchiyama(総合地球環境学研究所), M.Ajimoto(若狭歴史民俗博物館)という3名の日本人の名前があります。
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論文の要旨は、12000年から20000年前は、東アジアにおいて人間が変化する気候に対し順応し狩猟採取の革新が起こった期間であるが、陶器技術の出現と広範囲の分布の理由は能く理解されていない。また、最初の土器の使用方法も不明である。ここで、世界で最も研究された先史時代の陶器の流れをもつ日本の縄文土器の食品残渣の化学分析を報告する。今から15000年から11800年の間(縄文時代草創期)に製造された土器の破片に付着している黒こげの表面の堆積物から、有機化合物の明らかな処理から生じている淡水生物と海洋生物の脂質を確認した。動物の煮炊きが、陶器技術の発展への原動力になったと思われる。と、いうものです。
スクリーンショット 2013-04-19 10.26.59つまり、土器というものが煮炊きに使われた世界最古の発見であったということなのです。
土器が煮炊きに使われるのは当たり前じゃないかと思われる方もいらっしゃるとおもいますが、人間は土を焼いて器を作るという作業をおこなうきっかけになったのは何かという疑問を解明してくれるからなのです。
陶器もしくは、セラミックというのは人類における非常に大きな発明であることは確かです。それが(今のところは、ですが)古代の日本人であったというのは正直ちょっと嬉しい限りです。さかなを焼くには、串にさせばいいのかもしれませんが、煮ようとすると器が必要になります。粘土質の土をこねて作った器に入れて焼いたら、器が変質して固くなり容器として使えることを知ったというのが最初だったのかもしれません。

別の見方をすれば、日本人というのは世界一グルメだったということが言えるのかもしれません。煮ようという発想が起こるところに、日本人の感性の素晴らしさを感じずにはいられません。
鳥浜公園
今回の分析に使われた土器のひとつが、福井県の「鳥浜貝塚」から出土したものでした。鳥浜貝塚は、福井県の若狭町にあります。三方五湖という非常に風光明媚な中にある三方湖に面した場所にあります。非常に面白い遺跡で、古代の人々がゴミを三方湖に投げ入れて捨てていたのですが、そのゴミの上に土が堆積してそのままの形で残りました。縄文時代の草創期と言われる12000年前から縄文前期にかけてのもので、地元では縄文人のタイムカプセルと呼ばれています。投棄された物は、淡水魚、海水魚の魚類、淡水、海水の貝類、イノシシ、鹿、猿、うさぎ、狸、熊、犬、大神、カワウソ、猫、テン、アシカ、オットセイ、イルカ、シャチなどの哺乳類、それに鳥類や数々の木の実です。シソや、エゴマ、小豆、瓜、アブラナ、ごぼう等もありました。こうやってみて見ると、確かに煮炊きもしたくなる程の食生活であったことがわかります。非常に豊かであったことがわかります。また、縄の断片や、植物繊維を使用して作った、袋や網なども出土するとともに、丸木舟も出土しました。船にのって魚を捕っていたこともわかります。非常に高度な文明を持った大きな村を形成していたのだと思われます。若狭町には、若狭三方縄文博物館があります。

若狭は古代朝鮮語の行ったり来たりする所という意味の「ワカソ」が転じたものという説があります。朝鮮の歴史書「三国史記」の新羅本紀によりますと、第四代の王の脱解尼師今(だっかいにしきん)は、倭国の東北一千里にあった多婆那国(たばなこく)の出身だと記載されています。新羅へは、日本海を渡れば直接到達できます。この多婆那国こそが、鳥浜遺跡のあった場所ではないのでしょうか。脱解王には、瓢公(ひょうこう)と呼ばれた倭人の宰相がいたとも書かれています。瓢公は、海の向こうから瓢簞(ひょうたん)を腰にぶらさげてやってきたそうです。鳥浜貝塚では自然遺物としてこの瓢簞の果皮も出土しているのです。