小学生が拾った、乙女をかけた戦いの伝説のかけら
2013/10/06 日曜日 格納先:事件
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小学生がこの金属を拾った公園というのが、求女塚西公園。阪神電車西灘駅から、歩いて5分程のところにあります。公園の中には、整備された西求女塚古墳があります。西求女塚古墳は全長98メートルの前方後方墳です。築造時期は、3世紀後半。箸墓古墳の少し後に築造されました。副葬品として、三角縁神獣鏡7面をはじめ、今回少年が拾った破片が一部分であった半肉彫獣帯鏡2面など、青銅鏡が12面、鉄槍や短剣など、鉄製品は230点、碧玉製紡錘車状の石製品も出土しました。副葬品の内容から、ヤマト政権と深い関連のあった豪族の墓とされています。
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神戸市の灘区と東灘区の地には、旧海岸線に沿うように3つの古墳があります。古い順に言うと、ひとつが西求女塚古墳で3世紀後半、次が全長70メートルの前方後円墳である処女塚古墳(おとめづか)で4世紀前半、そしてその東にある東求女塚古墳(ひがしもとめづか)、全長80メートルの前方後円墳で、4世紀の後半に築造されたものです。どれもこの地を治めた一族の墓であると思われますが、処女塚を挟んで、西と東に求女塚(もとめづか)があるというのが非常に面白い構図です。
この地には、求塚伝説と言われるものが存在しています。昔、この地には、菟原処女(うないおとめ)と呼ばれる、美しい乙女が住んでいました。多くの求婚者がいましたが、その中で、特に熱心だった2人の若者が武器を持って争いました。一人は、血沼壮士(ちぬおとこ)と呼ばれ、もう一人は、菟原壮士(うないおとこ)と呼ばれました。乙女は立派な若者が自分のために争うことを嘆いて死んでしまいます。それを知った、2人の若者も後を追って死んでしまいました。それを哀れに思った人たちが、後々に語り伝えるために3人の塚を築いたというものです。
菟原(うない)というのは、灘のあたりの地名です。現在の芦屋市から神戸市の東灘区、灘区、中央区の一部は摂津国菟原郡(うばらのこうり)が置かれた場所です。そして、血沼(ちぬ)は、大阪の南、和泉地方の名を茅渟(ちぬ)といいます。和泉と淡路島の間の海を茅渟海と言いました。関西では、クロダイのことをチヌと呼びます。もしかすると大阪湾全体を茅渟海と呼んでいたのかもしれません。
菟原処女(うないおとめ)の歌は万葉集の中でも歌われていますし、平安時代の「大和物語」にも収録されています。実際に、菟原処女(うないおとめ)を争った事実はあったのかもしれませんが、もしかすると、大阪湾を挟んで、北と南で勢力争いがあったとも考えられます。
西求女塚古墳、処女塚古墳、東求女塚古墳は、海岸線に並んで築造されました。同様に、和泉より少し北になりますが、大阪府堺市の海岸線には、乳岡古墳、長山古墳が築造されています。乳岡古墳も長山古墳も4世紀後半に築造されました。海から見ることのできるこれらの古墳は、海の民たちの示威活動のひとつだと考えられます。大阪湾の制海権を巡り、戦いがあったとしてもおかしくはないのです。応神天皇により、河内の地が支配される以前、豪族達による権力闘争が繰り広げられたのだと思われます。
摂津、河内、和泉の地域は、その昔、凡河内国(おおしこうちのくに)と呼ばれていました。凡河内氏と言う名の豪族が支配していました。現在、灘区には五毛天神と呼ばれる神社があります。ここは以前、河内国魂神社であって、代々、凡河内氏が奉祀していました。国造であった一族であり、私は、神戸の3つの古墳は凡河内氏の墓であると考えています。
![スクリーンショット 2013-12-06 14.51.24](30b930af30ea30fc30f330b730e730c330c8-2013-12-06-14.51.24.png)