葛城氏の名前を残す町


葛城氏
日本の古代王朝が纏向に起こった時、大王家と並んでこの大和を支配していた一族であるのが葛城氏です。4世紀から6世紀にかけて、大和の佐紀古墳群、河内の古市古墳群や百舌鳥古墳群と並んで、大王級の古墳を残した馬見古墳群は、この葛城氏の墓域でした。ただ、この馬見古墳群は北葛城郡から大和高田市にかけて広がっており、現在の葛城市から見ると北東の地に広がっていることになります。葛城市は、2004年に北葛城郡にあった新庄町と当麻町が合併してできた町で、北葛城郡から葛城の名前を残すことになりました。葛城市も葛城氏の領土であったことは間違いありません。葛城という名字を持つ人は、現在葛城市には住んでいません。葛城山ロープウェイの近くに葛城という名字を持つ方がいらっしゃいますが、住所は御所市になります。御所市には、葛城一言主神社をはじめ、多くの葛城氏の痕跡が残っているが、葛城市域には残念ながら葛城氏の痕跡は非常に少ないのが現実です。葛城氏を考える時は、南の御所市、北葛城郡で残っている4町、そして、この葛城市と、大和高田市を合わせて見るのが適切だと思われます。これらが合併して葛城市を作ったならば、まさしく、「葛城」に相応しい町となることは間違いありません。そういう話もあったようですが、実現しなかったようです。

街道の終点長尾神社


長尾神社
葛城市の長尾という地域は、横約800m、縦役600mのほぼ四角形をしています。北側と、西南が川筋により少し突き出ていますが、それ以外は四角いのです。この範囲が長尾神社の領域であったのでしょうか。「昔、大和に大きな蛇が住み三輪山を七回り半に取り巻き、その尾は長尾まで届いた。」というのが伝承です。確かに東を見れば、三輪山の方向ではあるのですが、正確に東ではありません。少しずれるのです。三輪山と一直線に結ぶ川でもあれば、その川を蛇に見立てたのかなとも考えるのですが、二つの地を結ぶような川もありません。共に大和川の支流が走りますが、北の方向へと向かいます。しかし、ここから東へ真っすぐ横大路という道が作られていました。大和盆地を東西に貫く道であり、飛鳥の都に繋がる最重要道路であったことは間違いありません。竹内街道を峠から降りて来たとき、三輪山迄つながる人の行き来が見えたのかもしれません。それが伝承に変わっていったのでしょうか。
長尾神社2
長尾神社の祭神は、は天照大神と豊受大神。共に伊勢の祭神です。これは、伊勢神宮の真西にあるからと言われますが、現在の伊勢神宮からは確かに西の方角ではありますが、少し北にづれてしまいます。ただし、斎宮から見ると確かに真西にあったかもしれません。(逆に、そういうことを考慮して斎宮の場所を決めたのだと思われます。)他に祭神は水光姫命(みひかひめのみこと)と、その父親の白雲別命(しらくもわけのみこと)を祀ります。水光姫命は井戸の中から現れた神で光って尾が生じていたと記載されています。名前からも水神であったことがわかります。交通の要の地点にありましたから、古代よりいろいろな役割を申しつかってきたのかもしれません。六国史のひとつ、「日本三代実録」に「従五位上」の官位をもらっていることが書かれています。

飯豊皇女と角刺の宮


鏡池
「倭辺(やまとべ)に 見が欲しものは忍海(おしぬみ)の この高木なる角刺(つぬさし)の宮」大和に行ったら、見てみたい物は忍海(現在は、おしみ)にある角刺宮(現在は、つのさし)だという歌です。当時はとれほど素晴らしい宮だったのでしょうか。とてつもない大きな建物であったのかもしれません。現在、この地に残るのが角刺神社です。当時からあり、様々な伝説を残す鏡池は、そのまま残っています。しかし、歌が歌だけに期待していくと、角刺神社にはちょっとがっかりしてしまいます。時代の流れは、残酷なものです。角刺神社の隣には、葛城市歴史博物館があります。古代史が好きな人には、非常に興味深い解説なども掲示されています。
角刺宮に最初に宮を置いたのは、飯豊皇女です。人一倍猜疑心の強かった雄略天皇は、天皇の地位を狙う可能性のある者は、ことごとく殺していきました。これに伴い、雄略天皇の子供の清寧天皇が子を成さずに崩御してしまった時、跡継ぎが途絶えてしまいます。そこで、履中天皇の孫であった飯豊皇女が一時的に大王の役を担うのです。飯豊皇女の兄弟である仁賢天皇、顕宋天皇が、雄略天皇に殺されるのを恐れて、火焚きに身を落として隠れるのですが、その兄弟が見つかる迄の間のことです。当時は未だ女帝というものが存在していませんでしたので、あくまで天皇とはされていないのですが、飯豊天皇として記載している書物もあります。何を持って天皇とするかですが、日嗣の儀式をしていないのかもしれませんが、新嘗祭を取り仕切ったことは確かではないかと思います。
近くの花内という地名の場所には、飯豊皇女の墓もあります。花内は「埴口」が訛った物だと言われています。

當麻寺と中将姫、そして蹴速


当麻寺
中将姫の伝説は、ご存知の方も多いことと思います。実際にあった話なのかどうかは別にして、當麻寺には中将姫が作ったとされる当麻曼陀羅(たいままんだら)を金網越しに見ることができます。蓮の糸で織られたとのことですが、科学的に繊維を調査すると絹であったと言われています。
しかし、中将姫の伝説は非常に面白いことは事実です。平安時代に確立し、語り継がれると同時に謡曲、浄瑠璃、文楽、歌舞伎と貴族の楽しみから一般大衆への娯楽へと移り、多くの人々に愛された題材となりました。
この話の中には、平安時代の貴族へのやっかみと風刺が取り込まれています。右大臣であった
藤原豊成の娘と置いたところに、その時点で様々な人々の思惑が見え隠れします。藤原四兄弟の直系の一人として、天下を左右する人物になった藤原豊成。しかし、その弟であった藤原仲麻呂によって、豊成は左遷され、しばらくは藤原仲麻呂の天下となりますが、今度は道鏡にその地位をとってかわります。それにより、自動的に豊成は復権を果たすことになります。心移りをする孝謙天皇に翻弄されるかのような人生を送る仲麻呂ですが、その弟によって人生を翻弄される豊成。そして、その豊成の娘は豊成の境遇を受けるかのように、豊成の妻により、これまた、人生を翻弄されます。
伝説では、中将姫は貴族の娘であることを捨て、天皇からの誘いにものらず、仏の道へと入っていきます。ここに、大衆受けする要素があったのだろうと思います。中将姫をいじめた、継母は
藤原百能ではないかと言われています。藤原百能も、藤原四兄弟の一人藤原麻呂の娘です。ただ、藤原百能のお母さんは当麻氏なのです。當麻寺で入れるように計らってやったのは、継子いじめをしていたとされている藤原百能自身であったように私には見えるのです。真実は、大きく違うのではないかと思うのです。
相撲館
当麻には、蹴速という相撲の元祖が存在します。日本書紀では、出雲の野見宿禰と相撲をとり、腰を踏み折られて負け、当麻の土地を野見宿禰にとられてしまいます。相撲の起源として有名なお話です。出雲国が大和に勝つという、出雲の人からみれば嬉しくなる話ですが、それは事実ではないのではないかと思います。当麻の人達は、出雲とは大和にあった出雲のことだと言います。東にあった出雲が、西の当麻を倒すという話が本当だといいます。だからこそ、東は番付が上なのだそうです。真実はわかりませんが、当地には相撲館が立ち蹴速を偲ぶことができます。