百舌鳥古墳群
竹内街道の起点に近い場所に広がるのが、百舌鳥古墳群です。3世紀後半に初めて、100mを超す前方後円墳の形をした巨大古墳である箸墓古墳が纒向遺跡に出現して以降、畿内では5つの地域で巨大古墳の建造が続きました。纒向遺跡がある大和東南部の古墳群、奈良市の北西部にある佐紀古墳群、奈良盆地の西南部に広がる馬見古墳群、そして河内の地にある、百舌鳥古墳群と古市古墳群です。
これらの古墳群は、日本書紀に名を残す最初の天皇の陵墓がある大和東南部の古墳群にはじまり、4世紀末から5世紀にかけては大王の墳墓が佐紀古墳群へと移った言われています。古墳は巨大な土地を必要とするため、適する場所がなくなったというのもひとつの理由かと思われます。馬見古墳群は4世紀末から6世紀にかけて作られており、佐紀古墳群と時代が重なります。馬見古墳群の広がる北葛城郡の名前にあるとおり、ここは当時多大なる権力を持っていた葛城一族の墓域であったのではないかと言われています。奈良盆地から生駒山、信貴山、二上山等の生駒山系を越えて河内の地にできた古墳群が、伝応神天皇陵を中心とする古市古墳群と、ほぼ、その真西にある世界一の墳墓である伝仁徳天皇陵を中心として広がる百舌鳥古墳群があります。古市古墳群は4世紀末から6世紀前半にでき、百舌鳥古墳群も同様の時期にできた古墳群です。
![百舌鳥古墳群全体図2](files/767e820c9ce553e458b37fa451684f5356f3ff12.jpg)
どうしても仁徳天皇陵に目を奪われてしまいますが、百舌鳥古墳群の中には、円墳が21、前方後円墳が22、方墳が4つ作られています。現在は、墳墓に置かれた埴輪の分析技術が進み、円筒形から形象埴輪への移行や、焼き色等により非常に細かく造営年代もわかるようになりました。これらの分析から、百舌鳥古墳群の中にある巨大古墳を年代順にならべてみますと、以下の表のようになります。
![百舌鳥古墳群.002](files/767e820c9ce553e458b37fa4.002.jpg)
仁徳陵の不思議
![仁徳天皇陵2](files/4ec15fb3592976879675ff12.jpg)
![仁徳天皇陵4](files/4ec15fb3592976879675ff14.jpg)
高句麗との対戦の後、日本は倭の五王の時代に入ります。倭の王である「讃」が中国に朝貢したのが421年です。その後が438年に「珍」。そして、「済」が安東将軍に任じられるのが443年、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加号されるのが451年、「興」が462年に安東将軍倭国王、「武」が使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王となるのが478年です。こうやって見てきますと、仁徳陵の効果は倭王の朝鮮半島での勢力拡大に効果があったということがわかります。
日本書紀と古墳が示す年代の矛盾
日本書紀によりますと、仁徳天皇の在位は313年から399年になってしまいますが、これは神武天皇を紀元前660年の即位としてしまったことで各天皇の在位期間や年齢が大幅に崩れてしまったためによります。もし、古事記に記載されている干支のみを読み替えるなら仁徳の父である応神天皇が亡くなるのが、394年のこと。仁徳天皇がなくなるのが、427年のことです。日本書紀によりますと、仁徳天皇は民の竃の煙があがらないのを見て、疲弊していることを知り3年間の無税を決めるなどの徳のある人と描かれており「聖帝」という言葉も使っています。池や堤を構築し治水に努めるとともに、河内湖の水を抜き今の大阪の地の基盤を作った人でもあります。書記の中に書かれた記述量も抜きん出て多く、最大の古墳に埋葬されている人物としては疑うものはありません。ただ、崩御する20年前の記述として「10月5日、河内の石津原においでになり、陵地を定められた。」という記述があり、18日には陵を築いていた時の出来事として、百舌鳥耳原の名前の由来の話が出てきます。そして、その20年後の10月7日百舌鳥野陵に葬ったとあります。この記述を信じるなら、陵墓は生前に既に築かれていることになります。そうなると、仁徳陵は数十年ですが新しすぎます。
履中陵は誰の墓なのか?
表を見ていただくとわかりますが、履中陵は4世紀にはできあがっています。しかし、360mという大きさは、その時点において国内最大のものなのです。古市古墳群の中にある応神天皇陵は、この直後に作られた物と判断されています。ご存知の通り、履中天皇は仁徳天皇の第一子です。仁徳天皇が崩御してから、即位しました。治世は6年間しかありませんが、弟の住吉仲皇子との対立があり、同じく弟の瑞歯別皇子に殺させます。このためか、河内には住まず奈良の磐余(いわれ)の地に宮を構えます。そして、この磐余の地で最後を迎えますが、百舌鳥耳原陵に葬ったと記されています。次の反正天皇も5年間の治世でした。河内に戻りますが、次の允恭天皇の5年時に、耳原陵に葬ったと記載されています。つまり、仁徳→履中→反正は、この百舌鳥古墳群のどれかであるはずなのです。また、履中と反正は共に仁徳の子供です。次の允恭天皇の時は、42年の春に亡くなり、10月には河内長野原陵に葬ったとあります。ここは、古市古墳群です。允恭の子である安康天皇になると大和石上に都を置き、殺されて三年の後菅原伏見陵に祀ったとありますから、陵墓も奈良になってしまいます。次の雄略天皇も都を奈良県桜井市の泊瀬朝倉宮としますが、陵墓は丹比高鷲原陵とされ古市古墳群の中となります。つまり、允恭からは百舌鳥の地を離れてしまったことになります。
最も新しいニサンザイ古墳は、東西を向いています。通常は前方後円墳の場合、後円に埋葬し前方部から祈りを行います。また前方部には、墓守のような人物の石棺がでてきます。こう考えますと、ニサンザイ古墳の埋葬者は東を向いて拝まれる人物ということになります。時間的に前後してしまいますが、磐余に住み磐余でなくなった反正の可能性が高いのではないかと思います。現在の反正陵墓は履中天皇が埋葬されているのではないかと思われます。
では履中陵は誰かということになります。履中陵と仁徳陵の築造年代の差は50年。これは二世代違うことになります。書記によれば、仁徳の父は応神、応神の父は日本武尊、その父は仲哀天皇です。応神、日本武尊、仲哀の3名は古市古墳群に埋葬されています。つまり、該当者がいません。当時最大の墓を築いた人物は、日本書記から抹消されてしまった人物ということになります。逆に言えば、応神天皇の前に河内王朝を切り開いた大王が存在していたという証拠でもあるのです。筆者は、神功皇后の事跡を作り出した人物で応神の本当の父の初代ホムタワケ(ホムタワケは応神の名前ですが、応神はイザサワケであってホムタワケを継いだ王です。)の墓であると考えます。<詳しく知りたい方は、弊社出版物を参照ください。>
百舌鳥耳原の謂れ
日本書紀は、百舌鳥耳原の名前の由来として、急に飛び出した鹿が倒れ死んだので傷を探すと、百舌鳥が耳から出て来て飛び去った。耳の中がことごとく食いかじられていたので、百舌鳥耳原というようになった、としています。実際にありえない話ですので、何かの喩えなんだと思われます。鹿や、百舌鳥が神の化身であるというような解釈もあるようですが、大阪府の鳥として指定されているように百舌鳥はこの辺りの代表的な鳥ですから、たくさんいたのだろうと思われます。ただ、「耳」は別の意味があると思われます。魏志倭人伝の中にでてくる投馬国の官吏の名前は「彌彌」(ミミ)でした。副は「ミミナリ」ともされていました。この河内の地は、間違いなく投馬国の地です。そして、この百舌鳥野と言われた場所は。官吏である「彌彌(ミミ)」の土地であったのではないでしょうか。それを隠すために日本書紀は、わざわざ名前の由来の話を入れたのだと思います。<詳しく知りたい方は、弊社出版物を参照ください。>
最後に
履中天皇のお話をさせていただきましたが、住吉仲皇子が履中を殺そうとしたため、大和へ向かい逃げます。飛鳥山を越えようとしたとき、一人の少女に会い「この山には武器を持った者が一杯いるから、引返して当麻道(とうまみち)から越えなさい」と言われ、その通りにし難を逃れます。履中天皇の詠んだ歌で、『大坂に遭うや乙女を路問えば唯には告(の)らず当摩路(たぎまぢ)を告(の)る』の、当摩路(たぎまぢ)とは当麻への道であり、竹内街道のことだったと思われます。
![滋野和子](files/6ecb91ce548c5b50-2.jpg)