飛鳥王墓の町太子町


太子町
国道166号線(竹内街道)は、羽曳野市を抜けると太子町に入ります。

神のいない町


太子町という名前がついたのは1956年のこと。それ迄は磯長(しなが)村と山田村でした。磯長(しなが)は、科長とも書きます。小野妹子の墓と言われる場所は、割と山の中腹のようなところにあるのですが、その場所に科長神社があります。祭神は、級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長津姫命です。この級長津彦命(しなつひこのみこと)というのは、イザナギとイザナミから生まれるのですが、記紀にはイザナギが朝霧を吹き払った息から級長戸辺命(しなとべのみこと)が生まれたと書かれています。つまり風の神です。級長戸辺命は記紀にも出てくる神ですが、級長津姫命は出てきません。風の神が祀られる地というのはどういう場所なのでしょうか。
もともと、この神社は二上山の上にあったとされています。二上権現と言われたようで、二上山が風が抜ける谷として崇められたということなのでしょうか。
太子町には、地図を見てもおわかりいただけるように、多くの天皇の墓が作られています。また、竹内街道という古代の官道が通っていた場所でもあります。しかしながら、この太子町の中にある延喜式に記載されている式内社は、この科長神社以外何もないのです。その科長神社さへ、二上山から勧進したものであるなら、この地には神社が全くないということになります。つまり、神のいない場所なのです。

陵の地


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この場所に作られた天皇陵は、敏達天皇にはじまり、用明、推古、孝徳の4名に聖徳太子を加えて5名となります。エジプトの王家の谷を真似て、「王陵の谷」などとも呼ばれています。実際、なぜこの場所なのかというのは、非常に不思議なことなのです。
右の系図を見ていただくとわかるとおり、蘇我氏は欽明天皇の妃に娘を入れることによって大きな勢力を持つようになったことも確かなことです。この太子町に陵墓を置くのは黄色の人々です。新王朝を築いた人物とされている継体天皇は、太田茶臼山古墳が宮内庁の治定ですが、大阪府高槻市にある今城塚古墳で間違いないというのが定説となっています。継体の子供ですが、継体並びその跡を継いだ安閑・宣化はそれまでの天皇家の血が入らない天皇でした。これに対し、欽明の母は仁賢天皇の娘であって、これにより王統が繋がったと考える人々が沢山います。この欽明天皇は、檜隈坂合陵に葬ったと日本書紀には記されており、明日香村の梅山古墳か橿原市の見瀬丸山古墳が該当すると言われています。いずれにしても大和に葬られました。正統な王は、大和に眠らなければならないのです。

物部の地


欽明の跡を受けたのは敏達天皇です。系図をみていただくとわかるとおり、敏達には蘇我の血が入っていません。日本書紀によると、敏達は廃仏派であって物部・中臣と繋がります。このため、崇仏派の蘇我氏と対立していました。この敏達の陵が、河内磯長中尾陵に作られたのは、この地がもともと物部の土地であったためなのです。敏達のための陵を整えたのは、物部であったのであろうと考えられます。

新たなる世の創造


次の用明になると、どっぷり蘇我氏の血が入ります。この用明は宮を大和の磐余に置きます。物部守屋は危機感を募らせていたのですが、疱瘡を煩いわずか2年で死んでしまいます。敏達の墓が、これまでのしきたり通り前方後円墳であったのに対して、用明の墓はこれまで受継がれて来たものを打ち壊すかのように
方形墳に変わります。3世紀の箸墓以降の伝統を打ち破ったのです。この用明陵は、蘇我馬子の墓と言われている石舞台古墳とそっくりな形をしています。蘇我氏が目指したのは、これまでにない世の形であったのではないかと思えてならないのです。
神から仏への転換は、とてつもない大きな思想の転換です。天皇は神であったにもかかわらず、仏の前にひれ伏すわけですから天皇の形をも変えてしまう物であったように思えてならないのです。だからこそ、神のいない地に新たな形の陵を作ったのではないでしょうか。
次の天皇崇峻は、蘇我氏によって東漢直駒に暗殺されたとされる天皇です。本当に蘇我氏が暗殺を謀ったのかどうかはわかりません。彼の陵は、大和の桜井市倉橋に作られました。

聖徳太子信仰の聖地


叡福寺
次の天皇は推古天皇であり、この時の太子が厩戸皇子こと聖徳太子です。聖徳太子の宮や、大和の磐余にありました。しかし、どういうわけか彼はその後、斑鳩に自分の宮を移します。政治の第一線から離れ、仏教の道へと突き進んだように見えます。御存知のように大山誠一氏を始めとして、「聖徳太子は実在しない」という論を展開されており、近年はそのような理解をする人も増えて来たように感じます。実在したかしなかったかは別にして、聖徳太子信仰が出来上がっていったのは事実です。多くの人々が太子を敬い、太子こそが理想の姿であると慕うようになりました。誰も、厩戸皇子の存在迄は否定していません。厩戸皇子は実在し、父親である用明天皇の近くに葬られたというのが正しい理解かと思われます。現在残る聖徳太子御廟は、叡福寺の北に隣接する円墳です。太子のみでなく、母の穴穂部間人と妃の膳郎女が一緒に舞葬されています。厩戸が本当に描かれたような聖徳太子であったならば、厩戸は単独で斑鳩に葬られるべきです。しかし、この地に葬られていることは、厩戸が天皇の皇子のひとりにすぎないことを物語っています。
今は、叡福寺とともに聖徳太子信仰の聖地となっています。

見ることのできる天皇陵?


二子塚
推古天皇陵も近くにあります。推古天皇陵も方形墳であり、子供の竹田皇子が合祀されているといわれています。
少し気になるのは、推古天皇陵の近くにある、二子塚古墳です。連続した二つの方墳に同じ大きさの家形の石棺が納められています。地元の人々はこちらが、推古天皇と竹田皇子の合葬陵だと言っています。推古天皇陵は中を見ることができませんが、二子塚古墳は自由に入り横穴式石室を覗くこともできます。

小野妹子の墓の不思議


小野妹子墓
この地には、もうひとり遣隋使として活躍した小野妹子の墓があります。小野妹子が果たした役割は、非常に大きく隋から裴世清を伴って帰国し隋や唐の文化を伝えました。この後、日本は急ピッチで隋や唐の思想、制度、文化を受け入れ革新を引き起こします。確かに、天皇家とは近しい位置にいたのでしょうが、小野妹子がこの地に墓を作らなければならない理由は存在しないのです。小野妹子は、現在の滋賀県大津市、滋賀郡小野村の出身です。冠位十二階の中の位では大礼でした。これは上から5番目の位です。つまり近しいとは言っても、大王家の陵の地に葬られるべき人物ではありません。墓は故郷の大津にあってしかるべきです。現に大津の小野妹子公園の近くの唐臼山古墳が墓であるという説もあります。ここに墓をつくったとすれば、推古天皇からの特別な配慮があったとしか考えられませんが、小野妹子の墓は推古天皇陵を見下ろす位置に存在しています。この墓の真の埋葬者が特定することが、飛鳥の時代(蘇我氏や推古朝)の真実を描くことになるのだと思います。