白村江の戦いに翻弄された一族 大野城市王城山遺跡

新羅土器
5月15日福岡県大野城市教育委員会の発表によれば、東部の乙金山の麓にある王城山遺跡で6世紀から7世紀中頃の新羅土器2点が新たに出土しました。これで、同遺跡の新羅土器の出土は、全部で8点となり、日本最多となりました。発掘されたのは、高さ17センチ程の壷の半分と、液体を入れる容器の瓶(へい)の破片になります。壷には、新羅土器の特徴であるスタンプ円文がと、ヘラで書いた三角形文を見ることができます。この土器は、7世紀前半から中頃のものとされています。発掘場所は、円墳の入り口で、打ち割ったような状態で発見されたことから、墓前祭祀で使われたのではないかと見られています。
大野城市
大野城市と言えば、「水城(みずき)」のあるところです。ご存知のように、日本は663年に白村江の戦いで、百済を救うため唐・新羅の連合軍と戦いますが大敗します。中大兄皇子は、唐・新羅が日本に攻め込んでくることを想定して、664年に水城を、そして665年には大野城を、この大野城市に築城します。そして、667年には都を近江大津宮に移しています。
この後、668年には唐は高句麗を滅ぼし、朝鮮半島を全て征服します。冊封(さくほう;宗主国と朝貢国との関係、主従関係)を受け従った新羅は、その後、唐に反旗を翻したり冊封を願い出たりしながらも、675年には朝鮮半島を統一する大国となっていきます。
今回発掘された新羅土器は7世紀中旬のもの。
白村江の戦いが行われる前のものです。もちろん、土器はその後何年も使われることも考えられますので、一概に白村江の戦いの前であるとは決めつけられませんが、同様に出土した土器類が全て6世紀から7世紀中旬迄のものですので、作られて時間をおかずに祭祀に使われたのではないかと考えられます。
土器が作られた頃の新羅は、百済に攻め込まれ唐への援助を求めるもののなかなか協力が得られず、四苦八苦していました。新羅が力をもってくるのは、金春秋(後の、武烈王)による活躍迄待たなければなりません。
土器が出土した王城山遺跡の近くには、窯が発掘されています。須恵器を焼いた跡が見つかっており、この地域に多くの新羅からの渡来者が住んでいたことがわかります。日本書紀には、649年朝貢の使者として金多遂が新羅からやってきたことが記されています。反新羅の機運は高まるものの、国内では打倒新羅のような行動は、まだ、起きていなかったことがわかります。
しかし、白村江の戦いを境にして、彼らの立場はどのように変わったのでしょうか。安定した生活をおくることができたのか、または、敵国奴として迫害にあったのか、はたまた、戦勝国側として大きな権力を得ていったのか。場所が水城や大野城の近くだっただけに、残された彼らがたどったのは、過酷な
運命であったのではないかと思われるのです。
大野城市の乙金地区の遺跡発掘調査では、古墳時代の集落跡は発見されていますが、奈良時代には小規模な集落跡となり、平安時代の跡はよくわかっていないとのことでした。12世紀末以降になると、水田跡や再び集落跡が出現しています。ぽっかりあいた期間、乙金に住んでいた新羅の人々は全国に活躍の地を求めて散らばっていったのでしょうか。もしかすると、白村江の戦いの直後に滅ぼされてしまったのかもしれません。
ただ、7世紀末から8世紀になると日本中のあちこちで、新羅人が活躍し、日本の建国に大きく寄与していくことは事実です。ここで出土した同じ図柄の土器が、どこかで出土しないかを楽しみにしていたいと思います。