弥生時代の貨幣が出土 南あわじ市入田稲荷前遺跡

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兵庫県にある淡路島の南側鳴門海峡に面する南あわじ市の入田稲荷前(いりたいなりまえ)遺跡で、弥生時代に中国からもたらされたとみられる青銅製の渡来銭「貨泉」3枚が重なった状態で出土しました。
昨年12月1日に重機で掘削中、深さ約65センチの土中から3枚が重なった状態で出土したのだそうです。直径2.272.32センチ、重量1.452.53グラムで大きさや重さから後漢初頭(紀元前後)に鋳造されたものとみられています。奈良から鎌倉時代にかけての遺物を含む層から見つかっているが、3枚がまとまって出土したことから、市教委は弥生時代後期の遺構から流入したとみているそうです。

貨幣としての貨泉


貨泉は中国の新(紀元8~23年)の時代に誕生した貨幣です。多くは新以後の後漢時代に民間で鋳造されたため、国内では弥生時代後期後半~古墳時代初頭の遺跡から多く出土しています。既に、国内でも180枚程見つかっているのですが、複数枚見つかるのは、岡山市の高塚遺跡、福岡市の元岡・桑原遺跡だけとなっています。
日本で公式に貨幣が作られたのは、708年の和同開珎が最初です。流通しなかった貨幣としては、天武天皇の時(683年か?)に作られたとされている富本銭(ふほんせん)がもっとも古いものとして知られています。従って、貨幣の概念が生まれ、流通を開始したのは8世紀のことであると思いますが、そうであるなら、もたらされた貨幣は何に使われていたのでしょうか。
中国との交易があり、貨幣が使われていたとは考えられません。
考えられるのは、青銅品を持っていることで、権威を示したのではないかということです。

大国主命の繋がり


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淡路島は、イザナギ、イザナミの国生み伝説が残る島です。淡路という名前からも、また、鳴門海峡を挟んだ地域を阿波ということからも、この地には豊かわ粟(あわ)の産地であり、非常に古くから栄えたのだろうと考えられます。
同じ南あわじ市から7つの銅鐸が発見され、松帆銅鐸と呼ばれています。中に舌も一緒に残っていた頃から、銅鐸が実用品として使われていたことが証明されたのも、この松帆銅鐸によってでした。201610月には、この銅鐸の成分分析がなされて、紀元前4世紀から2世紀のものであること、また、朝鮮半島産の訛りが使われていることが判明しています。また、松帆銅鐸のいくつかは、出雲の加茂岩倉遺跡で見つかったものと、荒神谷遺跡で見つかったものと同じ鋳型から鋳造された兄弟銅鐸であることもわかっているのです。
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私には、大国主命の時代に出雲と淡路には非常に強いつながりがあり、盛んに交易が行われ、ともに栄えた場所であったと考えています。また、出雲と淡路を結んだ間にある岡山市の高塚遺跡もまた、深い関係があったのではないかと考えるのです。
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高塚遺跡からは、26点もの貨泉が発見されているとともに、銅鐸も発見されているのです。貨泉の貨幣が、貨幣としてではなく青銅器のための材料として用いられていたのではないかとも考えるのです。