日本人のルーツは南にあったのか 沖縄南城サキタリ洞

サキタリ洞
沖縄県立博物館・美術館は2月15日、南城市のサキタリ洞遺跡から貝で作られた鋭利な道具や装飾品、人骨など39点が出土したと発表しました。同じ地層にあった木炭を放射性炭素年代測定した結果、国内最古となる2万3千〜2万年前(後期旧石器時代)のものと判明したと報告がありました。
沖縄県の那覇市おもろまちにある沖縄県立博物館・美術館に行かれた方は目にされたと思いますが、沖縄には「港川人(みなとがわじん)」と呼ばれる古代人が住んでいたとされています。現在の八重瀬町字長毛の海岸は、昔、港川と呼ばれた場所で、
47年前、その石切り場で約17000年から8000年前頃の物と思われる人骨が発見されました。男性の身長は155センチ程度、女性の身長はそれより10センチ程度低かったと見られています。胴長短足の日本人体型をしていたようです。また、当然ながら、顎がしっかりしていて硬い物を食べていたと考えられています。

港川人

今回のニュースの2万3千年前とか、港川人の1万7千年前とか言われると、想像もつかない古さと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、最も古い人類はサヘラントロプスと呼ばれる700万年前にアフリカ中部、現在のチャド共和国に生息していた集団がいたようです。700万年ですからね、最早何がなんだか想像もつきませんが、チャドでは、「トゥーマイ」と呼ばれているのだそうです。現地語で「生命の希望」という意味なのだそうです。自分達が人類の祖であったかもしれないというのは、とてつもなく誇らしいことなのかもしれません。
人類が「ヒト」になるのは、それから長ーい長ーい年月が必要だったようです。人間は、学名が「ホモ・サピエンス」と言うようですが、この「ヒト」もやっぱりアフリカで発生したようです。但し、場所は東アフリカ、今のエチオピアだったようです。ちなみに、「ホモ・サピエンス」とは「知恵のある人」という意味なのだそうです。ホモ・サピエンスの出現は約16万年前です。「ホモ・サピエンス・イダルトゥ」と言うようですが、発見したのが日本人だと知って驚きました。「イダルトゥ」は、年長者という意味だそうです。16万年前の人だから年長者.......人類学というのは、奥深いものなのでしょうか、どうも、この言葉や数字の感覚についていけません。
この16万年前の「ホモ・サピエンス・イダルトゥ」が、10万年程前世界に飛び出していったと言われています。そして、世界中のあちらこちらで住み着いたとされているのです。この世界に散らばったホモ・サピエンスの一部が、港川人であったのであろうとされているのですが、その港川人が所謂日本の祖先である縄文人になったのかというのが、研究者達の大きな課題であるのです。

ワジャク人
港川人と骨格や顔面をよく調べてみると、下顎がかなりほっそりしていることが分かってきました。縄文人の特徴は、横に広い顔なのですが、港川人はどちらかというと、オーストラリアの先住民やニューギニアの集団に近いと言われるようになりました。ワジャク人(インドネシアジャワ島)にも近いと言われています。ただ、骨格だけでそのような結論に達してもいいのかという議論はあります。今は、港川人が縄文人になったのではない、もしくは、日本人の原型となったのではないという意見が大勢を占めています。三内丸山遺跡が示すように、日本の縄文人はもしかすると、北回りで降りて来たのかもしれません。常識的に考えたとして、寒い国から暖かい国へ降りていこうとはするでしょうが、暖かい国から寒い国へ向かおうとはしないのではないのでしょうか。もちろん、先史時代や縄文時代の気候が現在と同じであったとは思えませんし、縄文時代には海進が起こっていましたから今よりはもっともっと暖かかったのだということは分かります。
では、港川人はどうなったのでしょうか?全ての港川人が集団で南へと移動していったということではないと思います。やはり、その地に残った人々も入れば、北や南へ渡っていった人達もいたのではないでしょうか。遺伝により伝えられた骨格が、それぞれの人のルーツを物語っているのかもしれません。顔の広いあなたは、北からの縄文人かもしれません。目の細いあなたは朝鮮半島からかもしれません。そして、顎の細いあなたは、港川人であったのかもしれないのです。
今回見つかった、ガンガラーの谷というのは、鍾乳洞が崩れてできた場所だということです。石灰岩に守られていたせいで、2万年も前の骨が貝器が保存されていたのだと思われます。沖縄の他の場所や、本土においてももちろん、人は住み生活していたのでしょうが、2万年も前の物が保存されている可能性は極々わずかであるため、今後も発見される期待は出来ないと思います。
それだけに、港川人が縄文人の祖先であろうとなかろうと、2万年前の人類の暮らしが垣間見えるわけですから、慎重に発掘していってもらいたいと思うのです。同じ場所から、県内では最古となる9千年前の「押引文土器」が出土したという報道もありました。貝や石器のみでなく、土器等の加工物が人類の知恵の歩みを教えてくれるかもしれません。
港川人が縄文人でなかったとしても、2万年以上も前に、沖縄の地で住んでいた人々が存在し、その人々が貝を使って道具を作って暮らしていた。加えて、装飾品を作り、身に付けて飾っていたというのはまぎれも無い事実なわけです。ホモ・サピエンスが「知恵」を持っ者として、どうやって「知恵」を使っていったのかは非常に興味のある話です。自分達の中に港川人の血が受け継がれているのかどうかも大きな感心事なのかもしれませんが、血は受継がれていなくとも、知恵は受継がれているのかもしれないのです。発掘調査の結果が教えてくれる事は、まだまだ沢山あるのです。