名門一族巨勢氏の墓発見 奈良県市尾天満古墳

奈良県高取町教育委員会は、同町市尾で7世紀前半の古墳が見つかったと発表しました。直径約24メートルの円墳ですが、墳丘は一部が壊されており、直径は一回り大きい約30メートルだった可能性があるそうです。高さは、5メートル。横穴式石室の一部も出土しました。内部から出土した須恵器の甕(かめ)から築造時期が特定されました。
高取町は、奈良県高市郡の中にある町です。現在、高市郡は、この高取町と明日香村の一町一村しかありませんが、橿原市(耳成を除く)や、大和高田市の一部も昔は高市郡でした。平安時代に作られた辞書である、「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」には、高市郡にあった郷の名前が記載されています。巨勢(こせ)、波多、久米等、古代史の中で活躍する一族の名前が見て取れます。延喜式に掲載されている神社の数は、なんと54座。高市郡は、古代日本を動かした有力豪族達が集っていた重要な場所だったのです。
今回見つかった古墳が見つかった一帯は、一帯は飛鳥時代、蘇我氏らと並ぶ権勢を誇り、大化改新で活躍した大豪族・巨勢(こせ)氏の本拠地とされています。このことから、町教委は被葬者が一族の有力者だった可能性が高いと見ています。巨勢氏と言っても、ピンとこない方も多いかもしれません。奈良の三輪山大神神社の宮司は、代々巨勢氏であったと思います。継体天皇の擁立、乙巳の変、壬申の乱等、古代史の大事件には必ず登場する一族です。日本の創始以来続く、名門豪族の一つなのです。

巨勢氏
今回の古墳が発見された市尾には、他にも大きな古墳が存在します。墳長63メートルの前方後円墳である市尾墓山古墳は、2段築成ながら、周濠を持ち、葺き石がなされ、円筒埴輪が並べられた非常に立派な古墳です。築造は6世紀前半ではないかとされています。その横には、全長44メートルの宮塚古墳があります。こちらも前方後円墳で、6世紀の前半だとされています。
継体天皇の擁立にあたっては、大伴金村が中心となり、群臣を説得したようになっていますが、日本書紀は、この時の大連を大伴金村、大臣を巨勢男人(おひと)だったと記載しています。男人は、この後、磐井の乱でも活躍し、安閑天皇の妃に娘を入れます。巨勢氏全盛と言っても良い頃であり、市尾墓山古墳は、巨勢男人の墓なのかもしれません。
今回ニュースとなったのは、7世紀前半の古墳が見つかったためです。7世紀になると、大きな古墳は作られなくなり、群集墳に移行していくのですが、30メートルの円墳であるとするならば、7世紀としては非常に立派な古墳となります。乙巳の変の時、活躍した人物に巨勢徳多(とこた)がいます。蘇我入鹿が暗殺された後、蘇我氏はその復讐のために立ち上がろうとします。中心は、東漢氏でした。その東漢氏をなだめて兵を引かせたのが、巨勢徳多でした。中大兄皇子側に真っ先についた蘇我氏側の重臣です。彼は、左大臣に迄昇進しました。7世紀前半であるなら、時期的には微妙ですが、巨勢徳多の父である巨勢胡人の可能性は充分にあります。
巨勢氏の本拠地が、あたかも高取町市尾あたりのように報道されていますが、少し南側、御所市古瀬が本貫だという説があります。市尾と御所市古瀬は、それ程離れていません。近鉄吉野線でいうと、市尾駅の次が葛駅、その次が吉野口駅です。吉野口は御所市古瀬にあたります。市尾の北側を通って、近鉄や
JR沿いに曽我川(蘇我氏の名前が残っています。)というのが流れます。巨勢というのは許勢とも書きますが、「こせ」は小瀬なんだろうと考えます。地形から来ている名前だと思います。小さな瀬、つまり川があったんだろうと思いますが、この名前から推測すると、市尾ではなく、吉野口駅あたりから奥に入った場所であったのではないかと考えます。但し、名前に「巨勢」という力のある字を充てた頃には、市尾周辺の開けた場所迄を領地にしていたことは充分可能性がある話です。
水泥古墳
この、御所市古瀬には、水泥(みどろ)古墳という古墳があります。北古墳と南古墳の2つがあるのですが、「今木の双墓」とも言われている古墳です。日本書紀皇極天皇の条に、「国中の民や、百八十部曲を徴発して、前もって双墓を今来(いまき)に造り、そのひとつを大陵とよんで大臣の墓とし、もうひとつを小陵とよんで入鹿臣の墓とした。」と記載されています。即ち、蘇我蝦夷・入鹿の墓だと、昔から信じ込まれてきました。だからこそ「今木の双墓」と呼ばれて来たのです。石棺の縄掛け部分に、蓮の花の模様があり、仏教を推進した蘇我氏ならではの石棺だと騒ぎが大きくなりました。しかしながら、築造時期はどう見ても、6世紀後半から7世紀初頭の築造とされています。蘇我蝦夷が亡くなるのは、乙巳の変ですから645年です。年代が合いません。私は、この古墳は、巨勢氏の墓なのではないかと考えていました。「今木の双墓」は別の場所にあると思います。
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高市郡の盟主は、確かに、巨勢氏もそうですが、何と言っても、蘇我氏であったことも確かです。この高市郡の中での序列は、そのまま国勢に反映されていったようです。記紀によれば、武内宿禰(たけうちのすくね)という人物が国の大きな出来事があると、度々登場してきます。記述を信じるなら、約300年ぐらいの間、国政を支えた賢臣であったことになります。昔はお金(札)の顔であり、皆が知っていましたが、最近は福沢諭吉や、野口秀雄に取って代わられてしまいました。この武内宿禰の子供が、波多八代宿禰、巨勢小柄宿禰、蘇我石川宿禰、平群木菟宿禰、紀角宿禰、久米能摩伊刀比売、怒能伊呂比売、葛城襲津彦、若子宿禰です。波多、巨勢、蘇我、久米が勢揃いしている上に、高市郡の隣の葛城、その北の平群、そして南の紀の国の名前が入ります。実の子であったかどうかは別にして、武内宿禰がどの地域を基盤にした人物であったのか、そして、本当の親族ではないにしても豪族達の繋がりを読み取ることができるのです。