怪僧道鏡の宴のあと

東弓削遺跡での発掘結果報告


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平成289月、大阪府八尾市の東弓削遺跡で、大量の古代瓦が出土しました。出土した瓦の量は、大きな箱で300箱以上あったと報告されており、その中には平城京を代表する有力寺院興福寺や東大寺で使用されていた瓦と同じ様式の瓦が含まれていることも報告されました。大量の古代瓦が出土したのは、ここに大規模な瓦屋根の寺院があったためだと考えられています。市文化財調査研究会の担当者は、「地元出身の道鏡さんは称徳天皇の寵愛を受けて法王まで上り詰めますが、背後にふたりの影が見られる興味深い瓦です」とコメントされています
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平成2811月、寺院の遺構確認調査を行った結果、一辺約20m(天平尺 で約68尺)の正方形の塔の基壇を確認したと発表されました。塔の基壇としては、平城京にある東大寺東塔の24 m(約80尺)に次ぎ、大安寺の約21m(約68尺)や諸国の国分寺に匹敵する大きさで、東大 寺や大安寺と同様に七重塔であった可能性が高いと発表されています。

江戸時代の川柳に、「道鏡は すわるとひざが 三つでき」と歌われたことで、一躍有名人になったのが、弓削道鏡です。道鏡は河内国若江郡の出身で、今でいう、大阪府八尾市になります。弓削一族は、元々が物部氏です。崇仏戦争で、物部守屋が蘇我馬子に敗れた後、物部氏は弓削氏を名のるようになります。その子孫の一人が、弓削道鏡です。法相宗の義淵に学び、禅の教えを習得すると、宮中に入ることを許され禅師として活躍となりました。病気を患った孝謙上皇の看病を行い、孝謙上皇から寵愛を受けるようになったと言われています。
孝謙上皇は淳仁天皇と対立し、称徳天皇として重祚します。これに伴い、道鏡も出世し、太政大臣禅師となり、そして仏教界のトップの法王に登り詰めます。その後、宇佐八幡宮神託事件があり、天皇にまで昇り詰めようとしたところを、和気清麻呂の機転により、阻止することに成功します。称徳天皇は病に倒れ、そのまま亡くなってしまうのですが、その後は、下野し2年後には亡くなったと言われています。
続日本紀に記載された内容を拾っていくと、
  76410月 孝謙上皇が重祚し、称徳天皇となる
  76510月 道鏡太政大臣禅師に任命される
  76610月 道鏡法王となる。
  695月 宇佐八幡宮の託宣が伝えられる 9月 和気清麻呂託宣を持ち帰る
  76910月 天皇、由義宮を西京とし、河内国を河内職とする。道鏡の弟、弓削浄人ら道鏡の一族に叙位。
  7704月 由義寺の塔の建設
  7708月 称徳天皇崩御、河内職を河内国に戻す。
  7724月 道鏡没
道鏡が、称徳天皇に推されて宴を楽しめたのは、5年間程度の短い期間でした。ただ、その間に1年にも満たない間であったのかもしれませんが、平城京に対抗する西京である由義宮(ゆげのみや)を、この八尾市に築き、そこには道鏡の栄華を誇るかのような巨大な由義寺が築かれ、そして、シンボルとしての七重塔が聳え立っていたのです。
火事で焼失した後は、由義寺は再建されることもなく、悲惨な末路を辿ったようです。一瞬の煌めき、宴の跡が1250年後の今ようやく掘り起こされているのです。
(下記の図 
東弓削遺跡(由義寺跡)の発掘調査(遺構確認調査) 現地説明会資料 より)
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