八角陵 全容あらわに  2012年11月12日朝日新聞夕刊

2012年11月12日の朝日新聞の夕刊に、奈良県明日香村の野口王墓古墳を宮内庁が調査した際の写真を朝日新聞が情報公開請求で入手したとして、当時の写真をもとに、復元図を作成したという記事が掲載さあれました。
新聞記事20121112
野口王墓古墳は、現在、天武持統合葬陵に比定されています。この、天武持統合葬陵は、これまで、江戸時代からその比定地をめぐり、二転三転してきました。候補は、この野口王墓古墳と、見瀬丸山古墳です。見瀬丸山には、2つの棺がおかれていたために、天武持統合葬陵ではないかと言われてきたためです。ただ、持統天皇は、火葬であったため、棺が置かれること自体おかしいという説もあり、今は、野口王墓古墳が天武持統合葬陵であろうと言われています。野口王墓古墳は円墳のようにみえるのですが、これが記事にあったように、八角墳です。一方の、見瀬丸山は前方後円墳です。年代的にも、天武天皇が前方後円墳に埋蔵されたとは考えにくいものがあります。見瀬丸山とは、100年程度のずれがあるのではないでしょうか。
日本書紀には、687年(持統元年)10月壬子条に「大内陵を築く」との記載されています。その後、688年(持統2年)11月に誅(もがり)が終わり、天武天皇が埋葬されます。702年(大宝2年)に持統天皇が崩御し翌年12月癸酉に、飛鳥岡にて火葬され、同月壬午に、「大内山陵に合葬」されたと記載されています。現在は、この大内陵が、野口王墓古墳であると比定されているわけです。
1235年には、既に、野口王墓は、盗掘を受けていることが記録されており、江戸時代には石室の内部迄自由に入れたとも記録されています。最早、内部は何も残されておらず無残な姿になっていると思われます。私は、日本の礎を作ったのは天武天皇であると考えていますので、非常に残念なかぎりです。
今回、朝日新聞社が何をどこまで復元することに成功したのかは、詳しくは報じられていませんが、可能であれば石詰みの技術がどの古墳のものと同じであるのか、また、どこから運ばれた石であるのか等を詳しく分析してもらえればと期待します。
ちなみに、舒明天皇、天智天皇、天武・持統天皇、文武天皇、斉明天皇陵は、八角墳です。