紀元前150年頃の硯発見!? 行橋市下稗田遺跡

下稗田遺跡
福岡県行橋市の弥生遺跡である下稗田遺跡から出土した片方の表面がなめらかな薄い板状の石が「硯」と見られると國學院大学の柳田客員教授が発表しました(西日本新聞報道)。石はいずれも大きさが6センチから10センチほど、厚さが1.5センチほどで、これまで、「砥石」と見られてきましたが、紀元前2世紀ごろの中国で作られた、石製のすずりと形状が似ていることや、墨を擦る際にできたとみられるくぼみなどの特徴などから、この石を硯と判断したものです。
柳田教授は、今年2月に福岡県糸島市の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡と唐津市の中原遺跡が、弥生時代中期中ごろに国内で板状硯を製造した痕跡あると発表していました。潤地頭給遺跡からは工具とみられる石鋸(いしのこ)2片と、厚さ0・6センチ、長さ4・1センチ以上、幅3・6センチ以上の硯未完成品の一部が出土。中原遺跡では厚さ0・7センチ、長さ19・2センチ、幅7・2センチ以上の大型硯未完成品をはじめ、小型硯の未完成品、石鋸1片、墨をするときに使う研石の未完成品があったと発表されていました。
うるちじゅうとう遺跡

また、4月には、弥生時代中期中ごろから古墳時代中期までの石製品を調べた結果、硯の可能性があるものが全国で150例以上あることが分かったと発表されていました。確認事例は西日本各地に分布し、多くが地域の拠点集落で出土していることから、「当時、交易にも文字文化が浸透していたことが推測できる」とコメントしてされていました。

本当に紀元前150年前から、日本で漢字が使われていたのか?


今の硯は、墨を溜める為の窪みである海と呼ばれる部分と、墨を磨る為の部分丘と呼ばれる部分が一体となっていますが、古代の硯は、海と陸の区別がなく、墨を硯に載せ、研石{けんせき}ですりつぶしていたか、乳鉢で墨を粉末状にして用いていたとされています。それだけに、砥石との違いがはっきりしなかったのですが、硯は木枠にはめ込んで用いたようで、石だけでなく木枠の残骸と思われるものが出土したり、硯面に残る墨の跡から見分けられているようです。
硯

今回の発見は、形状が似ているということが第一の理由で、墨をする時にできた窪みが見られるということですが、墨以外のものを研いだ時にも窪みが生じるため、私は注意深く見る必要があると考えています。

楽浪郡設置の前


一番の問題は、紀元前150年ごろの硯であるということです。どのように年代を特定されたのかわかりませんが、後漢書東夷伝に残る「倭国王帥升等が生口160人を献じる」という記録が、安帝の永初元年ですから、西暦107年のことです。倭の奴国が光武帝から金印をもらうのが、建武中元二年で西暦57年のことです。そこから考えても、150年も前の出来事になります。
そもそも、前漢が朝鮮半島北部に楽浪郡を設置し朝鮮半島に関心を持ったのが、紀元前108年のことですから、それよりも50年前に、既に文字が伝わり使われていたということになると、彼らは一体どこからどうやってやってきたのかということになります。
福岡での出土ですから、常識的に考えるなら、朝鮮半島を経由してやってきた人々が住みつき、もたらした文化ということになりますが、その頃まだ朝鮮半島に漢字が伝わっていたかがわからない時代です。半島を経由せずに、直接、九州へやってきた人々が、九州の瀬戸内側に集落を形成していたというのは素直に理解できない内容ではあるのです。
福岡県行橋市は、豊前国の都があった場所の隣です。古代より栄えた場所であったことは確かですが、その地に中国からやってきた人々が、紀元前に集落を形成していたというのはどうでしょうか。下稗田遺跡は弥生前期から中期にかけて大規模な拠点集落があった場所として注目されている場所です。住居跡も、円形の竪穴式から方形の竪穴式に移る様子が観察できたり、また、初期の水田耕作が行われる前の、狩猟採集の生活を送っていた形跡も見つかっている場所です。渡来人がやってきて、突如、村ができた場所ではありません。狩猟生活を送っていた人々が、漢字を使っていたというのは正直素直に受け入れがたいものであることは確かです。
硯であるという確証ととともに、文字が記述された土器などが発見されることを待ちたいと思います。