最古の平仮名土器発見

毎日新聞 2012年11月28日 20時55分(最終更新 11月28日 22時41分)他
ほどんどの新聞でトップニュースのひとつとして取り上げられていましたが、毎日新聞の記事がももっとも詳細であったので、以下にそのまま転記させていただきます。
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右大臣も務めた平安時代前期の有力貴族、藤原良相(よしみ)(813~67)の邸宅跡(京都市中京区)から、最古級の平仮名が大量に書かれた9世紀後半の土器が見つかった。京都市埋蔵文化財研究所が28日発表した。平仮名はこれまで、9世紀中ごろから古今和歌集が編さんされた頃(905年)に完成したとされてきたが、わずかな資料しかなく、今回の発見は成立過程の空白を埋める画期的なものという。
 佛教大キャンパス建設に伴う昨年の調査で、平安京跡にある邸宅の池跡から9世紀後半のものとみられる墨書の土器約90点が見つかり、うち約20点に平仮名が書かれていた。下層の井戸跡からは、約10点の木簡や檜扇(ひおうぎ)の断片も見つかった。
 専門家が平仮名の解読を試みたところ、土師器(はじき)の皿や高坏(たかつき)から「かつらきへ」「ひとにくしとお(も)はれ」などの文字が読み取れた。「かつらきへ」は神楽歌の一節の可能性があり、「ひとにくし……」は枕草子(11世紀初め)や蜻蛉(かげろう)日記(10世紀後半)にも登場する表現という。
 皿1枚に約40文字もあったり、高坏の脚部分に1~2ミリ角の細かい文字がびっしり書かれたりしていた。筆跡が違う文字もあり、複数の人物が書いたとみられる。墨の保存状態は良く、筆の運びも鮮明に残っていた。だが後世の平仮名とは崩し方が異なり、ほとんどの文字は解読できなかった。
 檜扇類には、「奈※波都(なにはつ)」など当時の手習いに使われた和歌の冒頭などが万葉仮名で記されていた。
 平仮名の成立過程の資料として「藤原有年申文(ふじわらのありとしもうしぶみ)」(867年)がある。讃岐の国司が都に提出した文書の一部で、草書をさらに崩した漢字を仮名のように使用したもので、「草仮名(そうがな)」と呼ばれる。こうした例は9世紀後半の赤田(あかんだ)遺跡(富山県射水市)の土器にも見られる。
 今回発見された文字は草仮名よりはるかに洗練され、4文字程度を流れるように続けて書く「連綿体(れんめんたい)」を取り入れるなど、後世の書法に匹敵する完成度という。
 藤原良相は、皇族以外で初めて摂政となった藤原良房(よしふさ)の弟。漢文や仏教に造詣の深い教養人だったといわれる。豪壮な邸宅は「百花亭」と呼ばれ、清和天皇も訪れて桜の宴を開いたとされる。


歴史探求社解説

平仮名の歴史は大変古いものですが、現在のように使われるようになったのは、近年のことです。48文字(現在、小学校で習うのは46文字)の平仮名が決められたのも明治33年。まだ、100年ちょっとしか経っていません。もちろん、万葉仮名から始まり、日本人は言葉の音が等しい漢字を当てはめ文章として残しました。最古の歴史書である古事記が漢字を音としてのみ使われた最古の書です。その後、音にあてはめられた漢字の草書体がすすみ、平仮名ができあがりました。日本は中国との関係が強く、また、文化は中国が遥かに進んでいたことから、漢字文化が根付き漢字の使用が重んじられていましたが、平安時代になり、日本が独自の文学(和歌、日記、物語など)が発達するに伴い、漢字から脱し、平仮名の使用が普及しました。女性がこの文字を使って、多くの文章を残したことから女手などと呼ばれ、「男子たるもの・・・」の考えを持つ人々にはなかなか受け入れられませんでした。漢字の草書体がすすんでできた文字だけに、丸みや流れがあって世界的にみても、非常に美しい文字だと思います。平仮名が残されている遺物、また、歴史に関しては、新聞記事が詳しいので、ここでは省略させていただきます。
今回の発掘で注目したい点は、写真で見る限り「かわらけ」のようなものや、高杯に書かれていることで、有力貴族の人達の優雅な生活を覗き見ることができるようです。かわらけは、盃として使われたとするなら、盃の裏に歌や文章を書いて渡し、そこに酒を注いだのかもしれません。飲干した後、裏返せば恋の歌が書かれていたとするなら、酒の味も格別であったのではないかと思われます。