木簡が語る天智天皇への和珥氏の画策 近江国府跡

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4月24日に大津市教育委員会は、近江国府跡の菅池遺跡で見つかった木片2本が、近江国府が作られたとされる8世紀よりも前の、7世紀中頃のものである可能性が高いと発表しました。木片を奈良文化財研究所(奈良市)に依頼し赤外線撮影で調査したところ、大きい方には両面に「命」「何」「久」などの文字が確認でき、文意は不明だが何らかの文書に用いた可能性が高く、小さい方は、片面に「皮」のほか、「乎」や「尓」と見える文字があり、万葉仮名で歌を記した可能性があるとのことです。非常に文化的に進んだ建物もしくは、組織がこの地に存在したことを示す物ですが、記載された文章はともかく、近江地方の謎の解明に一石を投じていることは確かです。
近江国府がおかれたのは、8世紀中頃のこととされています。794年には、平安京ができます。平安京に隣接する近江国府の位置づけは益々重要度を増したことと思われます。北陸や東国から都を入る関所のような役目をもったのかもしれません。歴代の近江守の中に藤原仲麻呂の名前があります。それだけでも、存在の重要性は窺い知れます。条理の跡や、倉庫群の跡、廃寺の跡等、次々と出てくる遺跡の数々は、その大きさや立派さにも驚かされます。8町四方あったとか、9町四方あったなどと(一町は109m)発掘の度に国府の大きさも大きくなっていっています。
この、木片が7世紀中頃というのは、かなりドキドキする年代なのです。
663年白村江の戦いに負けた天智天皇が、667年に遷都したのが近江大津宮でした。こうるさい者共が多かった飛鳥を離れたいという意識があったのかもしれませんが、どう考えても一番大きな要因は、唐が瀬戸内海から攻めて来ても、琵琶湖を使って逃げることができるという交通の要地であったためだと思われます。頭の中では、琵琶湖の北岸から敦賀を抜け、日本海を北に登ろうと考えたのかもしれません。しかしながら、なぜに大津でなければならなかったのかという本当の理由は、全くわかっていないのです。木片の年代が、この近江大津宮の設置よりも前であることから、この地を治めていた有力氏族が天智天皇を助け、自らの地に都を持ってくるようにしむけたとも考えられるからです。
近江の南を治めていたのは誰だったのでしょうか。
琵琶湖遺跡
琵琶湖の西側と言えば、新王朝を作った人と言われている継体天皇の出生地になります。継体天皇は、近江国高嶋郡三尾野で誕生したとされています。現在の高島市があるところですが、この地には、この継体天皇の出自の謎を解く非常に興味深い古墳が発掘されています。鴨稲荷山古墳です。全長45mの前方後円墳ですが、副葬品たるや金銅冠、沓(くつ)、魚佩(ぎょはい)、金製耳飾、鏡、玉類、環頭大刀(かんとうたち)、鹿装大刀(ろくそうたち)、刀子(とうす)、鉄斧(てっぷ)というとてつもなく豪華な品々が現れました。解くに金銅冠が新羅のものであったことから、新羅の王族がここに住んでいたと考えられるようになっています。この古墳の築造年代が6世紀の前半です。継体天皇と重なるだけに継体天皇の親族なのかという期待が膨らみます。継体天皇は、記紀に応神天皇の5世であると書かれていました。応神天皇も新羅の血をひくものではないかというのは、「隠された系図」に書かせていただいた通りです。敦賀から、余呉湖、そして琵琶湖西岸は新羅系の渡来人の住み着いた場所であったのかもしれません。
一方、東側は天智天皇の時に、さかんに百済からの移民を住まわせた場所です。日本書紀にも、神崎郡や蒲生郡の文字が見えます。琵琶湖を挟んで東西向き合うように百済と新羅があったのでしょうか。
一方、近江大津宮や近江国府の置かれた南側には、和珥氏(わにうじ)の痕跡が色濃く残ります。全長72mの前方後円墳である和爾大塚山古墳は、4世紀末には作られていたようです。この古墳の近くの出身者が、遣隋使の小野妹子です。この小野妹子も和珥氏になります。また、応神天皇の皇太子菟道稚郎子の母は、和珥氏の日触使主(ひふれのおみ)の娘でした。
やはり、木片の持ち主は和珥氏だったのでしょうか。そして和珥氏の画策により、近江大津宮ができたのでしょうか。