木簡が語る天智天皇への和珥氏の画策 近江国府跡
2013/05/01 水曜日 格納先:発掘情報
![スクリーンショット 2013-05-01 10.29.18](30b930af30ea30fc30f330b730e730c330c8-2013-05-01-10.29.18.png)
近江国府がおかれたのは、8世紀中頃のこととされています。794年には、平安京ができます。平安京に隣接する近江国府の位置づけは益々重要度を増したことと思われます。北陸や東国から都を入る関所のような役目をもったのかもしれません。歴代の近江守の中に藤原仲麻呂の名前があります。それだけでも、存在の重要性は窺い知れます。条理の跡や、倉庫群の跡、廃寺の跡等、次々と出てくる遺跡の数々は、その大きさや立派さにも驚かされます。8町四方あったとか、9町四方あったなどと(一町は109m)発掘の度に国府の大きさも大きくなっていっています。
この、木片が7世紀中頃というのは、かなりドキドキする年代なのです。
663年白村江の戦いに負けた天智天皇が、667年に遷都したのが近江大津宮でした。こうるさい者共が多かった飛鳥を離れたいという意識があったのかもしれませんが、どう考えても一番大きな要因は、唐が瀬戸内海から攻めて来ても、琵琶湖を使って逃げることができるという交通の要地であったためだと思われます。頭の中では、琵琶湖の北岸から敦賀を抜け、日本海を北に登ろうと考えたのかもしれません。しかしながら、なぜに大津でなければならなかったのかという本当の理由は、全くわかっていないのです。木片の年代が、この近江大津宮の設置よりも前であることから、この地を治めていた有力氏族が天智天皇を助け、自らの地に都を持ってくるようにしむけたとも考えられるからです。
近江の南を治めていたのは誰だったのでしょうか。
![琵琶湖遺跡](743574366e56907a8de1.jpg)
一方、東側は天智天皇の時に、さかんに百済からの移民を住まわせた場所です。日本書紀にも、神崎郡や蒲生郡の文字が見えます。琵琶湖を挟んで東西向き合うように百済と新羅があったのでしょうか。
一方、近江大津宮や近江国府の置かれた南側には、和珥氏(わにうじ)の痕跡が色濃く残ります。全長72mの前方後円墳である和爾大塚山古墳は、4世紀末には作られていたようです。この古墳の近くの出身者が、遣隋使の小野妹子です。この小野妹子も和珥氏になります。また、応神天皇の皇太子菟道稚郎子の母は、和珥氏の日触使主(ひふれのおみ)の娘でした。
やはり、木片の持ち主は和珥氏だったのでしょうか。そして和珥氏の画策により、近江大津宮ができたのでしょうか。