古代の道はロマンに続く 「中ツ道」遺構の発掘
2013/05/14 火曜日 格納先:発掘情報
![中ツ道の発掘](4e2d30c49053306e767a6398.jpg)
奈良盆地には、南北に古代の幹道として、「上ツ道」「中ツ道」「下ツ道」の3本の直線道路が4里の間隔(約2.1キロ)で並行し、藤原京と平城京を結んでいたとされています。これを大和三道と言います。東西には、摂津や河内からつづいてくる道として、一番北側には平城京へそのまま入っていく暗越の道。真ん中には龍田道が法隆寺の近くに入り、その後東西にまっすぐになる北の横大路、一番南には、大津道や丹比道(竹内街道)と繋がる横大路と呼ばれた道が整備されていたとされています。
南北の3本の道のうち、最も活用されたと思われるのが、一番西側にある「下ツ道」です。ちょうど奈良盆地の中央を南北に走る道であり、平城京の中では朱雀大路となる、まさしく本道とも言える道です。道路の規模は34.5メートル、路面幅は18メートルあったといわれる道で非常に大きな道路でした。
一方、最も東側にあった「上ツ道」は、箸墓古墳や西山古墳を結ぶ道です。江戸時代には、上街道と呼ばれていました。この道も長く使われた道です。今も伊勢街道とも呼ばれて活用されています。この道の東にも、有名な山辺の道と言われる道が今でも残っています。ハイキングコースですので、歩かれた方も多いと思いますが、所謂山道のひとつです。
![大和三道](5927548c4e099053.jpg)
この道がいつ頃作られたかは定かでは有りません。孝徳天皇の時、653年に「処処の大道を脩治る」と日本書紀に書かれていますから、この時作られたのかもしれませんが、孝徳天皇は難波に目が向いていましたから、大和三道が作られたどうかはわかりません。
672年の壬申の乱の時、大和の戦場として「将軍(吹負(ふけい))が本営の飛鳥に帰ると、東国からの本隊の軍が続々やってきた。そこで、軍を分けて、それぞれ上道・中道・下道にあてて配備した。」という記述があります。従って、この時には、できていたと考えることができます。もしかすると、天智天皇に呼ばれた大海人皇子が、近江の宮を脱出し、吉野に逃げ込む時もこの道を使ったのかもしれません。
そして、持統天皇が遷都したのが、日本史上最初で最大の条坊制(じょうぼうせい)を布いた都城である、藤原京です。横大路、下ツ道、中ツ道の間に藤原宮を置き、25平方キロメートルを越える巨大な宮でした。(平安京や、平城京より大きいものでした。)この藤原京に遷都したのが、694年。そして、平城京への遷都が710年。つまり、藤原京迄に整備された、大和三道を真っすぐ平城京へと延ばすという大工事が行われたのです。
藤原京に作られた建物は、未だ新しいままでしたので、建物を解体し、瓦や柱等の木材、それに敷石も平城京に運び再利用されることになりました。この時、中ツ道は、当初16mであった道幅が約28m (一説によると23m)まで拡張されることになりました。
今回発掘された報告によると、路面は、粘土を平らにならした上に砂混じりの土(厚さ約10センチ)を突き固めていたとされています。平城京の築造にあたっては、運搬用の台車が、何度も何度も、まさしく砂煙を巻き上げて、藤原京から資材を運んでいったことと思われます。通行量も、想像を絶するような量であったのではないでしょうか。この結果、藤原京側には、ほとんど建物が残らなくなったのではないかと思われます。
![スクリーンショット 2013-05-14 13.32.02](30b930af30ea30fc30f330b730e730c330c8-2013-05-14-13.32.02-2.png)
平安時代の末には、水害によりこの道は埋没してしまったと言われています。1000年以上の歴史を経て見つかった、古代の歴史を刻んだ道の発掘は、太古の昔に起こった出来事を彷彿させ、大いなるロマンを感じさせてくれるのです。