CTスキャンで、聖徳太子の正体を暴け! 奈良市元興寺

日本書紀にも記録されている通り、日本における最古の寺は用明天皇の治世に蘇我馬子が造った「法興寺」でした。建立を発願したのが587年。その後、推古天皇の時代になり、596年に出来上がり、蘇我馬子の子供の善徳が寺司になるとともに、高句麗の僧と百済の僧の二人が住み始めたと書かれています。
この最古の寺である法興寺ですが、今は二つの寺に別れています。ひとつは、明日香村にある「飛鳥寺」です。本尊の飛鳥大仏は、左右のお顔が違います。シンメトリーを嫌う日本独自の美意識の代表です。現在、飛鳥寺は真言宗豊山派の寺です。真言宗豊山派の総本山は、奈良県桜井市にある長谷寺になります。
都が平城京に遷都されたとき、飛鳥にあったものの多くが平城京に移りました。法興寺も平城京に移され、それが「
元興寺」になります。移された当時は非常に大きな寺でしたが、どんどん衰退してしまいました。物部守屋と対立しながら、「仏教こそこの国の指針となる道」との必死の思いで蘇我馬子が建てた寺であり、日本における仏教の出発地点といっても過言ではない寺です。同じ奈良市にある東大寺に負けないくらいの壮大な寺であってしかるべきだと思いますが、馬子の名声がそがれていくに従い落ちぶれていってしまったということなのだと思います。代わって、天下を取った藤原氏の氏寺である興福寺は、逆に壮大な寺へと発展していきました。仏教の世界も、歴史や、教えだけではダメなんですね。時の権力に付いていかなければ繁栄はないということがよくわかります。今では、奈良市内に、2つに別れて存在しています。
スクリーンショット 2014-11-06 16.49.50
1つは、奈良の中院町というところにある、昔、元興寺極楽坊と名乗っていた元興寺です。本堂も国宝で、世界遺産にも登録されています。今は真言律宗に属します。総本山が西大寺です。もうひとつの元興寺は、芝新屋町というところにある東大寺の末寺で華厳宗に属しています。たったひとつの寺にも、紆余曲折に富んだ深い歴史が隠されています。
今回、前者の方の元興寺で、大きな発見が報告されました。2014年4月14日。境内にある元興寺文化財研究所は寺にある奈良県指定文化財の
聖徳太子二歳(南無仏太子)像の内部に納められた仏塔「五輪塔」に、CT(コンピューター断層撮影)調査を行ったのです。
聖徳太子二歳(南無仏太子)像は高さ
68.2センチで、鎌倉時代の13世紀末頃に制作されたものです。昭和35年のX線透過撮影による調査で、既に右大腿部に納められる五輪塔が確認されていました。右大腿部から腰にかけてぐらいの大きさで、木製の塔が動かないように、支え棒で抑えられて埋め込まれているのです。塔はもともと、舎利(お釈迦様の骨)を入れる物として始まり、進化していきました。日本では、3重の塔や5重の塔という建造物へと変化しています。今回は、その五輪塔を詳細な分析をおこなったというっものなのです。
南無仏太子像について、もう少しお話しておきます。聖徳太子が二歳の時、東方に向かって「南無仏」と称えて合掌された時、手から舎利(仏の骨)が出たという言い伝えがあり、その姿を彫ったものなのです。二歳の時、「南無仏」と唱えて合唱するだけでも凄いことですよね。私の娘などは、二歳の時意味不明な線の絵しか描けず、「この子は大丈夫だろうか」と心底心配したものです。最早、二歳のイメージから既に神格化されてしまっているのが分かるかと思います。
聖徳太子信仰という方が適切かと思いますが、聖徳太子を祀る人々の間では、この二歳の太子の話は有名で、南無仏太子像は、あちこちに存在しているのです。ただ、この像は他の南無仏太子像と少し異ななっているのです。他の南無仏太子像は坊主頭なのに対し、髪をみずらに結っているのです。また、緋の長袴をはいて両足ともに見えないのが普通ですが、ずぼんでしょうか、をはき、裳をつけていて、足に沓をはいているのがわかるのです。つまり、大量に造られた品のひとつではなく、特注でかつ、非常に丁寧に造られている像なのです。南無仏太子像
そのような像ですから、何かがあるはずという期待は膨らみます。また、この元興寺文化財研究所は、知る人ぞ知る考古学の大研究所でして、錆びてボロボロだった埼玉の稲荷山鉄剣から、金象嵌であることをつきとめ、X線で文字をあぶりだしたのがこの研究所です。ですから、私だけかもしれませんが、元興寺文化財研究所がCTスキャンするというだけで、何がでるのだろうとドキドキしてしまうのです。ましてや、昭和35年にX線透過撮影をしたとき、なんと、右大腿部に納められる五輪塔が確認されているのです。いやが上でも期待は膨らみます。
そしてCT調査の結果、釈迦の遺骨を意味する舎利の金片や銀片、水晶などとみられる数ミリ程度の舎利十数粒が確認されました。また、像の首の内部には、封書2通があることも判明しました。制作当時の願文や銘文などが記載されているとみられています。担当者は「像を解体するまで封書の中身は不明だが、舎利は、太子像に沢山の思いが込められた証拠」と話しています。
「手から舎利が出た」という伝承をそのまま実現できなかったとしても、体の中の舎利を収めた塔を埋め込んでいるというのは、いかに聖徳太子信仰が強かったかを物語っています。また、舎利がそんなに多く分けて伝わっていたとは思えなかったのですが、金や銀、水晶を舎利として代用していたというのは、「なるほど」と感心させられました。

また、この像は少し曰く付きの品でもあります。江戸時代の話として、尾張第七代藩主徳川宗春が鷹狩の道すがら、上宮寺へ立ち寄り聖徳太子二歳像を参拝後、この像をいったん名古屋城へ持ち帰ったと言います。だか、手元においておいては行けないと知り、後に返却したと伝えられています。徳川宗春に、何か祟りのようなものが降り掛かったのかもしれません。
多分、室町時代ぐらいの作品ですから、非常に芸術性が高い物ですが、奈良県指定文化財にしかなっていません。しかし、私は、聖徳太子信仰を物語る大切な遺物の一つであると思っているのです。
聖徳太子立像
聖徳太子はいなかったのではないかというのが、現在の通説です。近年では、高野勉氏が、真の聖徳太子は蘇我馬子の子の善徳だという説を投げかけられています。これは、なかなか面白いと思っているのです。大山誠一氏の聖徳太子は虚構だという説は有名ですし、冠位十二階と遣隋使以外は嘘八百だという意見もわからないわけではないです。しかし、大山氏の意見は厩戸皇子は実在したと言っているだけに、スッキリしません。
一番スッキリしないのが、じゃなぜ、藤原不比等は聖徳太子のような人物を日本書紀の中に登場させ、活躍させねばならなかったのかというのが、全く説明されていないことです。もちろん、時代は天皇制を中心とした政治に移っていきますから、その手順として王族が摂政をやるような状況から移っていかなければならなかったと言いたかったかもしれませんが、そうであるなら、逆に時代の流れとして推古天皇が一人で治世を行ったというのはかなり無理のある論理となってしまうと思うのです。
しかし、もし、高野勉氏の説ならば、悪役蘇我馬子の子供が仏教中心の治世を体現したとはすることができず、ましてや、藤原不比等にとっては、その仏教中心の治世を体現した蘇我宗本家を倒したのが、自分の父親と天智天皇こと中大兄皇子であったなどということを言えなくなってしまいます。そうであるなら、蘇我馬子の子の善徳の業績を全て、聖徳太子に入れ替えるということも考えられると思うのです。法興寺の寺司として、名を残す善徳。「聖徳」は「善徳」に対し造られた言葉であったとするなら、これもまた、よくわかるのです。
太子生誕1440年の今年、そろそろ聖徳太子の真の姿であり、正体が暴かれる日も近いのではないかと考えます。