文化の最先端を走っていた常世の国 茨城県瑞龍遺跡

ランク2

ランク
ブランド総合研究所という名前のマーケティング会社がやっている地域ブランド調査というものがあります。その地域の観光やイメージで判断して、魅力度ランキングなどというものを作っているのですが、目的はあくまで、「その結果を売る」と言うランキング商売です。ですから、そんな結果に乗せられてどうのこうのということ自体無意味なのですが、人口減少の日本においてはマイナスイメージが定着してしまうことは地域の衰退を意味してしまいます。ですから、注意することが必要なのですが、2013年、2014年と都道府県ランキングで2年連続最下位となったのが残念ながら茨城県でした。現代の茨城県は、誤ったイメージが先行してしまっている結果だと思いますが、古代における茨城県は驚くべき魅力的な地域であったのです。
常陸国
茨城県は、昔、常陸国(ひたちのくに)と言いました。この国府がおかれていたのが、現在の石岡市です。石岡市には、鹿の子遺跡と呼ばれる奈良時代末から平安時代前半にかけての遺跡があります。常磐自動車道を建設の時に発見された遺跡なのですが、建物跡は、溝で区画された中から、竪穴式住居後69軒、連房式竪穴遺構5棟、掘立柱建物跡31棟、工房跡19基などが発見されました。また、この調査で土器、墨書土器、鉄・銅製品、瓦、漆紙文書など多量の遺物が出土しました。これにより、「地下の正倉院」と呼ばれることになったほどです。特に漆紙文書は、内容も出挙帳、人口集計文書、兵士自備戎具の簡閲簿など全国で初めて発見されたもので注目を集めました。
この漆紙文書から逆算で推計すると、当時、常陸国には約22万人の人が住んでいたことなどが確認されています。当時の日本の人口が、約560万人と推計されていることから考えると、その4%が常陸国に住んでいたことになります。とてつもない密集地とは言いませんが、非常に多くの人が暮らしていた当時の日本の中でも有数の場所であったということがわかります。

人口密度

これは、奈良時代にはじまったことではないのです。弥生時代の発見された集落の数から推計された人口調査があるのですが、それによると、現在の茨城県は東国の中では飛び抜けて人口の多い地域になるのです。東国では茨城県から群馬県そして、長野へと人口集中地域がちらばります。
この人口推計の結果を裏付けているのではないかと考えられるのが、巨大な前方後円墳の存在です。東国で一番大きな古墳は、何度か説明させていただきました群馬県の太田天神山古墳です。そして、二番目に大きな古墳が、茨城県石岡市にある舟塚山古墳です。墳丘長が182メートルもある大古墳です。巨大な古墳を作る一族が住んでいたことの意味は、その土地が非常に豊かな土地であったこと。きっと、稲作もさかんであったのでしょうし、また、非常に大きな武力を持っていたのだと思います。
その武力は、何に活用されたのでしょうか。石岡市の「鹿の子遺跡」で注目したいのは、数々の工房跡です。その記録や、出土物から、ここが武器製造工場であったことがわかっています。奈良時代のことですから、当然、大和政権の配下にいるのですが、ここで武器を造って何をしていたのかと考えると、そこには蝦夷討伐しかありえないということがわかります。例えば、「潮来(いたこ)」という町があります。橋幸夫の歌で有名な街ですが、水郷の町としても有名です。しかし、潮来はどうやっても、「いたこ」とは読めません。ここは、昔「いたく」と言ったのだそうです。いたくは、「痛い」「処(く)」から来ているそうです。非常に多くの人々を殺した場所だそうで、ヤマト政権と地元の人との戦いが繰り広げられた場所であったそうです。この「いたく」はアイヌ語だとも言われています。

すなわち、地名に残るように常陸国は蝦夷討伐の最前線であった場所であり、その歴史が「鹿の子」での武力の製造地として役割を担い、その上で武力そのものの供給地へと変わっていったのだと理解することもできます。九州に防人が設置されましたが、その防人についたのは、東国の兵であったとされています。東国というと非常に広い範囲をさしますが、私は、この常陸国の人々だったのではないかと考えているのです。
「常陸」の名前の由来は、常陸国風土記には2つの説がかかれています。ひとつは、道路があちこち整備されており、それを直道(ひたみち)と言ったことから、名称にしたというのがひとつ。もうひとつの伝承が、ヤマトタケルが、蝦夷討伐をにやってきたとき、新治国(茨城県の西に有った国)の国造である比奈良珠命
(ひならすのみこと)に井戸を掘らせ、その水で手を洗った時に、衣の袖を「浸した」からだと言います。衣袖漬(ころもでひたち)の国とも呼ばれているとも書いています。どちらかというと、後の説明の方が好きですが、どう考えても両方ともこじつけだと思われます。
本当のところは、やっぱり、もっとも東に有り、日が昇る国であったから「日起ち」の国であったのだと思われます。それ以外には考えられません。日が昇る国と言って風土記に書いて報告できなかったところに、常陸のヤマト政権への遠慮が見えるような気がします。
注目したいのは、常陸国が「土地が広く、海山の産物も多く、人々は豊かに暮らし、まるで『常世の国』のようだ」と書かれていることです。常世の国とは、永久に変わらない神の領域のことです。現世に対する常世ですから、いわゆる理想郷、仏教用語では極楽ということになると思います。
弥生時代の遺跡分布でもわかるとおり、稲作が盛んで、食べる以上の収穫があったのではないかと考えられます。また、霞ヶ浦は、今は淡水化されてしまっていますが、昔は汽水湖であったことが記録されており、その昔は、太平洋につながる入り江だったのではないかと考えます。そうであるなら、最高の自然条件を持つ地域であったことは確かなのです。
このような豊かな土地を放っておくはずは無く、誰が最初に征服したのかが気になるところです。「国造本紀」によると、「建許侶命(たけころのみこと、多祁許呂命)」は、茨城国造の祖で、成務天皇の時に石城国造(いわき市)に任じられたと書かれています。また、初代の茨城国造は、第15代応神天皇の時代に天津彦根命(あまつひこねのみこと)の孫である「筑紫刀禰(つくしとね)」を国造に定めたことに始まるとされています。常陸国風土記では筑紫刀禰の子、8人のうち1人は筑波使主として茨城郡湯座連の初祖になったとも記録されています。少し、整理しますと、天津彦根命の子が建許侶命。その子が筑紫刀禰で、その子が筑波使主ということになるでしょうか。
これをどのように理解するかですが、建許侶命という有力な人物は蝦夷討伐に多大なる貢献をした人なのではないかと考えます。天津彦根命は、天照大神とスサノオ命のせ誓約によって生まれた子です。すなわち、天孫族と、現地の豪族の間に生まれた子ということでしょうか。筑紫刀禰という名前が、九州からやってきた人物を連想させることも確かです。「筑波山」という名も、筑紫と関係あるのではないかと思います。筑波山は、別名「紫峰」とも呼ばれます。筑紫の文字が隠れているのです。
九州から東征してきた天孫族が、ヤマトに都を築くとともに、日本列島全土を支配しようと東へ東へと進んだのではないでしょうか。その中の重鎮の一人、建許侶命は東国征伐を任されたのではないでしょうか。東北へ歩みを続ける建許侶命は、自分の子をその土地土地の国司として配置ししていったのではないかと思われます。その子供の一人、九州から呼ばれた、筑紫刀禰と呼ばれる人物は、この豊かな地を支配していた蝦夷を討伐し、全てを自分の傘下に組み入れることに成功したのかもしれません。

神武東征がヤマトへの征服で終わること無く、東へ東へと続けられた様子を残しているように思うのです。

ひるくながひ3
2014年2月19日、茨城県教育財団は非常に面白い報告をしました。常陸太田市瑞龍町の瑞龍遺跡の発掘調査で、平安時代の竪穴建物跡から、国字「ひるくながひ」がヘラで刻まれた土器の底面が出土したと言うのです。「ひるくながひ」の文字は「見」と、「見」をひっくり返した字を組み合わせた字。(国字は漢字にならって日本で作られた文字をいう。)同財団によると、この国字が刻まれた土器の出土は県内で初めてだそうです。
ひるくながひ2
「ひるくながひ」っていったい何?とお思いでしょうが、男女の交合を意味する字なのです。記事に有ります通り、平安時代の貴族の隠語なのです。もっと簡単に言いますと、「69」という隠語をご存知かと思いますが、昔、少なくとも平安時代頃は、数字の「6」のかわりに、「見」という字を用いていたということです。もちろん、そのような漢字は、漢字を造った国中国には存在せず、日本で造られた字なのです。だから「国字」という言い方をします。国字は沢山ありますが、日本人らしい遊び心をもった知恵が溢れていて、少し品がないですが、私はなかなか良いセンスだと思っているのです。
瑞龍遺跡で出土した土器には、ひるくながひの横に「女」という漢字が書かれていました。どういう世界なんだと思ってしまうのですが、これを土器に刻んだ人は、その土器を何に使おうとしていたのか、興味をそそられる出土品であることは確かです。
常陸太田市瑞龍町というのは、昔の久慈郡にあたり、常陸国の中においても決して開けた場所ではありませんでした。そのような中においても、国字を生み出すような、もしくは、伝えるような都人が住んでいたわけですから、非常に不思議な土地柄であることがお分かりいただけるのではないかと思います。
常世の国と表現される、食料の豊かな国。そして、そこには、弥生人が入ってくる以前から多くの縄文人が暮らしていた土地でした。渡来系のヤマトにより征服されてしまった後も、縄文人のもっていた狩猟技術が兵力として活用されたのだと思われます。また、それと同時に、日本の東の常世の国の中では、非常に高い文化を育む素地も存在していたようです。商売用に創り出されたランキングに踊らされること無く、古代より発展した茨城を誇りをもって愛していっていただければと思います。