金太郎に込められた悲痛な祈り


金時山(足柄山)は静岡県駿東郡小川町のみでなく、神奈川県の南足柄市、そして、箱根町にもまたがりますが、この地域には、どこへ行っても少しづつ話の違う「金太郎伝説」が伝わります。
金太郎の話を知らない人は日本人にはいないと思いますが、きっとそれは歌のせいであって、本当の話を読んだことのある人は少ないかもしれません。auの宣伝で、最初の頃、金太郎が桃太郎と浦島太郎に「俺が何したか試しに言ってみ?」と質問するシーンがありました。確かに金太郎は、名前の割にそのストーリーはメジャーではないのです。

金太郎の本山は、小山町にある金時神社であると思われます。そこに伝わる話を簡単に紹介すると下記のようになります。
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年彫物師の娘八重桐(やえぎり)の子供として金太郎は生まれます。お父さんは坂田蔵人だそうですが、すぐに亡くなってしまったようです。金太郎は、毎日、山の動物達と相撲を取って遊んでいました。976年のこと、源頼光がこの地にさしかかります。相撲のあとに木を引き抜いて橋を作ってしまう金太郎を見て家来にし、坂田金時という名前を与えます。後に、頼光四天王と呼ばれた家来の一人となり、大江山に住む酒呑童子を退治します。金時は55歳の時亡くなったとされています。
こうして見ると、桃太郎や浦島太郎は実在しなかったかもしれませんが、金太郎の場合は「坂田金時」という名前とともに、生まれた年や、亡くなった歳まで記録されており、実在の話だったように思えます。しかし、実際のところは、坂田金時なる人物は実在しなかったといわれており、いろんな話が混ざってもっともらしく架空の人物伝にすり替えられてしまったというのが事実のようです。
金太郎に関しては、小山町の町史が最も詳しく調べ、また、研究されているように思います。小川町の町史に基づき、少し解説を入れさせていただきます。坂田金時が源頼光の家来であったというのは架空の話のようですが、藤原道長の日記「御堂関白記」には頻繁に登場する、金太郎のモデルと目される人物がいます。下毛野公時(しもつけぬのきんとき)という名前の人です。
宮中を守る一介の舎人であったのですが、藤原道長に見初められ藤原道長の警護を担当するようになり、その後、どんどん出世していったようです。道長は「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と我が世を謳歌した殿上人です。その護衛として気に入られていたとするなら、名を残すほどの出世を成し遂げた人物がいたとしてもおかしくはありません。それが金太郎こと、下毛野公時だったようです。
下毛野公時は実在したようですが、なぜこれが坂田金時になってしまったのでしょうか。下毛野公時ではいけななかったのでしょうか。物語では坂田金時の幼名が金太郎と呼ばれたようですが、無理があると言われます。「金」の字がつく名前がもらえたとしても、元服以降のことでしょうから、幼名に金太郎などという豪勢な名前をつけられた人物など存在しないのだそうです。足柄山で金太郎と呼ばれるようになった男とは一体何だったのでしょうか。
私たちの記憶の中には「まさかり、かついだ金太郎、熊にまたがり牡馬の稽古」という歌に歌われた金太郎の姿です。
そもそも、「まさかり」とはなんなのでしょうか。我々が木を切るときの道具として知っているものは斧(おの)です。金の斧、銀の斧という正直者が得するイソップ物語の話がありました。世界中で木こりが使う道具は斧であると知っています。
日本には、斧のほかに、鉞(まさかり)と呼ばれる木を切る道具があります。斧に比べて、歯の幅が長いのが特徴です。歯の根元が小さいのに、歯だけが巨大な斧に似た道具と言えば、イメージしてもらうことができるでしょうか。絵に描かれるまさかりは、斧の前と後ろが大きいもののような絵ですが、実在するまさかりは遠心力を利用して切るため、先端に重さが集まるような工夫のある形状になっています。
なぜ、まさかりを担いでいるのでしょうか。先ほどの坂田金時は、気を引っこ抜くところを源頼光に見られて家来になりました。まさかりで木を切り倒していたわけではありません。何に使っていたのでしょうか。まさか、熊や猿を脅すためというわけではないと思います。金太郎は木こりの子供だったということなのでしょうか。話からするとお爺さんは彫物師であったはずです。彫刻刀をもっているならわかりますが、でっかい、まさかりは何だったのでしょうか。
金太郎といえば、金と字の入った真っ赤な正方形の腹掛けを付けているというイメージがあるのですが、皆さんはどうでしょうか。子供の頃、お腹をひやさないようにと腹掛をしますが、いい年をした少年や青年が、あんな腹掛をするものなのでしょうか。まさか、自分の名前を覚えてもらうために金と大きな字が入った腹掛をしていたわけではないと思います。
江戸時代、金太郎がもてはやされた時期がありました。元気な子供のイメージをあたえてくれる金太郎はとても、縁起のよい絵柄だからです。この浮世絵に描かれている金太郎は、実は腹宛をしていません。裸で赤いのです。生まれたばかりの子供は名前の通り「赤ちゃん」で、血の色が強く赤に見えます。金太郎は、多血症で地の色が肌に見えていたということなのでしょうか。
これらの不思議は、すべて、金太郎は「雷神」の子供であったからという理由で説明ができます。鉞(まさかり)を手に持っているのも、木こりだったわけではなく、雷神の子供だからだそうです。大木に雷が落ちると、木は、真っ二つに裂けます。このことから、雷神はまさかりをもっているのだということになっているそうです。だからこそ、金太郎もまさかりをもっています。真っ赤な金太郎、もしくは、腹掛けが赤いのは、雷神の色だからです。雷神は火の神でもあったのです。
つまり、架空の人物坂田金時が語られる前に、雷神の子金太郎が存在していたのです。この雷神の子金太郎が、いつしか、下毛野公時と結びついて、足柄山に住む坂田金時に変わってしまったのです。
雷神の子、金太郎の母親は、彫物師の娘八重桐(やえぎり)ではありません。母親は、山姥ということになっています。また、雷神の子と言われながらも、父親として雷神が登場する話ができあがっているわけではありません。坂田金時の話にしても、雷神の子供の話にしても、金太郎には父親はいないのです。腹掛けは職人の服装です。「金」の字があることから、金太郎は鍛冶職人の子供だという説もあるようですが、私はそうではないと思考えています。
熊や、猿、猪と相撲を取って遊ぶ金太郎に、人間の友達はいません。auの宣伝では、浦島太郎や桃太郎が親友のようですが、山の民の金太郎はひとりぼっちでした。しかし、そうであったとしても、元気に育っているというのがお話です、
金太郎とは一体なんだったのでしょうか。
昔、日本には「姥捨て」「子捨て」という風習がりました。生活が厳しい中で、飢饉でも起ころうものなら、年寄りは山へ捨てられました。赤子も同じです。育てていけないとわかると、やはり山に捨てられました。誰の子供ともわからない子供は、やはり山へ捨てられました。
金太郎とは、こうした山へ捨てられた子供の話なのではないでしょうか。だからこそ、山姥が育てます。山姥の伝説と一緒になって金太郎伝説が生まれたと思います。だから、金太郎には父親がいません。山に捨てられた子供には、着るものがないから、裸であったはずです。それではかわいそうと思われたのでしょうか。後世、誰かが腹掛けをつけてくれたのだと思います。友達もいないでしょうが、山の動物達と元気で育っている。これは、捨てた親の願いであるように思えます。
身を切るような気持ちで山に捨てた子が、どこかで金太郎のように強く育っているという話は、捨てた、もしくは捨てさせられた母親の気持ちを、少しだけ助けてくれる話に違いないと思うのです。子捨てをしなければならなかった親のために、話続けられ、語り注がれてきた話が金太郎であったのだと思います。将来、殿上人に見初められて、武人として大出世する姿を思い浮かべながら、無事に育てと祈っていたのではないかと思うのです。
童謡「金太郎」は、明治33年に石原和三郎という人によって作られました。2番の歌詞に「あしがら山の山奥で、けだもの集めて相撲の稽古」と歌われました。これにより、金太郎は、足柄山のお話になってしまいましたが、長野、宮城、新潟、富山、近畿地方、それに、岡山や島根にも伝わっている話でした。共通しているのは、すべてにおいて山姥の子供だという言い伝えです。金太郎の元気いっぱいの子供のイメージがの裏には、とても悲しい現実が潜んでいたようです。

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