埼玉県の壬生吉志



壬生吉志氏とは
坂戸市の北に、男衾郡(おぶすまぐん)という郡が置かれていました。その男衾郡榎津郷に、西暦800年代の前半に壬生吉志福正という人が住んでいたことがわかっています。これは、平安時代に作られた法令集である「類聚三代格」、そして、「続日本後記」に壬生吉志福正の話が出てくるからです。名前は福正(ふくまさ)で、苗字、すなわち氏の名が壬生吉志(みぶのきし)になります。みぶのきし、ふくまさです。
「壬生(みぶ)」というのは、古代の部(べ)、すなわち職能集団の一つです。壬生部は「乳部」とも書きます。この字だと非常にわかりやすいのですが、皇子女の養育のために設置された組織です。
最初は、それぞれの皇子のために個別に設置されたようですが、推古天皇15年(6072月に「壬生部を定む」とあり、この時から壬生部によってすべての皇子の養育の面倒が担当されるようになったようです。乳母の大規模版というところでしょうか。財を確保のために多くの直轄地を持っていたようです。
食事だけではありません。教育も重要な任務でした。このため海外の先進的な知識を持つ人々がこの任にあたったことは間違いありません。従って壬生部に任命されたのは渡来人の王族や学者であったと推測されます。
一方、「吉志(きし)」は、吉士や吉師とも書いたりしますが、新羅の官職の名前です。渡来人に対して、ヤマト朝廷が吉士を与えたという説もありますが、やはり、新羅系の渡来人が自分の官職を名乗りそれを職能の後ろにつけたのではないかと思います。
つまり、壬生吉志とは、皇子の教育職を得ていた、並びに、朝廷の直轄地を管理していた新羅からの渡来人と言っても良いのではないかと思います。日本書紀における皇極天皇の条で、643年、蘇我入鹿は巨勢徳多らと100名の兵を使って、聖徳太子の子供である斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させます。皇位は田村皇子こと舒明天皇が既に継承していたのですが、蘇我入鹿にとってみれば山背大兄王の人気が脅威だったのかもしれません。
このとき、山背大兄王の家臣であった三輪文屋君は、「乘馬詣東國 以乳部爲本 興師還戰 其勝必矣」と進言します。すなわち、東国の「乳部」のもとで再起を期し、入鹿を討ってはどうかと言っているのです。しかし、山背大兄王はこの提言を受け入れず、戦うことを望まず自害してしまいます。また、この時、蘇我蝦夷は入鹿の所業に激怒したと記されています。蘇我入鹿は非常に悪者として描かれ、2年後の乙巳の変へとつながっていきます。
私は、三輪文屋君が言った「東国の乳部」というのは、武蔵国の男衾郡に居た「壬生吉志」のことなのではないかと考えているのです。つまり、時の絶大なる権力者である(私は王朝を築いたと考えていますが)西の蘇我氏に対抗できるぐらいの力をもった一族として、東に壬生吉志が存在していたのではないかと考えているのです。

笠原氏の囲い込み
武蔵国造の乱が、534年です。武蔵国造であった笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と笠原直小杵(おき)の内紛が勃発します。最初に動いたのは、笠原直小杵(おき)でした。小杵は東国最大の力を持っていた独立した王国である毛野国の王上毛野君小熊(かみつけののきみおぐま)と結び、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)を殺害しようとします。使主(おみ)にとってみれば、絶対絶命です。そこで、使主はヤマト政権に助けを求めます。結局、ヤマト政権側が勝利するのですが、その見返りに笠原直使主は、4箇所の屯倉を差し出します。
しかし、ヤマト政権はそれだけでは終わりませんでした。これ以降ヤマトの東国支配が加速します。ヤマト政権は笠原氏が周辺豪族と手を結ぶことのないように渡来人による笠原氏の囲い込み作戦を実施し、幡羅郡、高麗郡、そして新羅郡を笠原氏の周りに置きます。そして多分、
600年代早々ぐらいの時期に壬生吉志も男衾郡に配置されたのだと思われます。

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壬生吉志福正の伝説
また、この壬生吉志の力を示しているのが、類聚三代格に記載されている壬生吉志福正の記録です。壬生吉志福正は、「自分に十九歳と十三歳の息子がいるのだが才能がないようで行く末が心配だ。ついては両人の生涯にわたる税を一括前払いさせて欲しい」と申し出ます。そして、役所は断る理由がないからこの申し出を受けたという記録です。
なんとも情けない話です。親バカではなく、もはや典型的な壬生吉志福正というバカ親の話になっています。いつの時代も、こういうバカがいるのです。
ただ、今回は2人分の一生分の税を一度に納めることのできる財力を持っていたことに注目したいと思います。壬生吉志の一族とは、代々とんでもない力と財力を有していたことがわかる逸話です。

白髭神社は新羅神社か
2015年2月、埼玉県坂戸市の入西石塚古墳から古墳時代中期(5世紀ごろ)の冑(かぶと)と甲(よろい)、首を守る頸甲(あかべよろい)、肩を守る肩甲(かたよろい)などの武具や武器が出土したことが報告されました。この発掘があるまでは、私は、壬生吉志というのは7世紀頃から移住してきた一族だと考えていました。発掘されている古墳は、どれも6世紀の末から7世紀にピークを迎え、8世紀頃まで続く古墳群であったからです。そして、それまでこの地は、高麗郡と同様に空閑地であったのではないかと考えていました。高麗川は流れていますが、灌漑工事の知識がないと稲作ができない土地だという意味です。
しかし、今回の発掘によって、どうやらその考え方は誤りだということがわかりました。それは、この地で見つかったのが5世紀中旬頃の武具であったからです。もちろん、時代物の武具を大切に使っていたとも考えられますが、やはり、5世紀中旬には武力を有してこの地に入り込んでいた人々が居たと考えるのが適切であるように思います。
5世紀といえば、武蔵国造の乱の前です。その頃すでに、渡来人が住み着き開拓を行って、稲作ができるような生活基盤が整えられていたということなのかもしれません。同じ血族、同郷の出身一族を頼って壬生吉志が住みついたと考える方が正しいのかもしれないのです。壬生部を任じられるような一族が、誰もすまない東国に住み着くというのは確かに考えにくい話だからです。そこは、5世紀から新羅系の一族が住みついていた土地であったいうことなのではないでしょうか。
そういえば、この辺りは白髭神社が多いのですが、私は、高麗若光の姿を求めた白髭であるという言い方をしてきました。もちろん、高麗郡の中ではそのように移り変わっていったのでしょうが、もともとは、やはり新羅神社であったのかもしれません。そうであればこそ、名前が転化して新羅が白髭に変わったのではないでしょうか。またそうであれば、高麗郡の周辺を飛び越えて入間川の西全体に点在している白髭神社の理由も納得がいくのです。スクリーンショット 2015-03-07 15.07.09